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手綱獲りの旅

いつのまにか時は流れおっさんになってしまってました。

世の中金か?そうじゃないか?についての自分なりの答え

ある人は言います。

「世の中金だ」

また別の人は言います。

「世の中金じゃない」

 

私は10年くらい前は、わりとこれは実際のところどっちなんだと悩んでいて、

ある時は「やっぱ金だよな」と納得し、

別の日には「いやいや、金じゃない」と思い直し・・・

とふらふらしていました。

 

これから先に考えが変わるかもしれませんが、

現時点での自分の答えをここに書いておこうと思います。

それは、

「世の中は金。人生は金とは限らない」

というものです。

 

まず、「金だ」「いや金じゃない」という議論の際に、

その対象が「世の中」なのか「人生」なのかを分けて考える必要があると思います。

それを一緒にしてしまっていると答えが出ない気がします。

 

ここでは、自分の外側のコントロールの及ばない遠い世界を「世の中」とし、

比較的コントロールの及ぶ身近な範囲を「人生」とします。

明日の株価なんかは世の中側で、

今日の昼ごはん何食べる、とかはわりとコントロールが効くので人生側でしょうか。

 

そうすると、世の中というのは自分(も含めますが大勢のそれ)以外の人々の動きで決まってくるもので、

またそれらの人々はいろいろな価値観を持っています。

(もっとも、ある程度は教育や社会規範で縛られて画一的だとは思いますが)

で、それらの人がそれぞれに「仕事」をして、その成果を交換しながら生きています。

その際の「仕事の成果」の交換に使われるのが金です。

とはいえ、中には具体的にイメージできる「仕事」の対価としてではない、

金融的なルールで動く金もあるでしょう。

ただし、個人レベルで考えたときには結局それは誰かに「仕事」をしてもらうために使うということになると思います。

したがって、世の中を動かす原動力は金であるといっていいでしょう。

個人個人の価値観とは関係なく、金によって人は世の中とつながっているといってもいいかもしれません。

そういう意味で、「世の中金だ」というのはほぼ間違いなさそうです。

 

しかし、「人生金だ」に関しては上の議論をそのまま当てはめにくい気がします。

人生を「自分のコントロールできる範囲の身近な事柄」とすると、

そのなかで金でコントロールできるのは他人の仕事の成果を得るということだけで、

財やサービスを享受するという一点に絞られます。

ここで、「より良い財やサービスを享受することが人生の最大の目的だ」

という考え方自体は何ら否定すべきものではないと思います。

そういう人は「人生金だ」と言っていいでしょう。

また、「お金を持っていることで優越感を感じたい」というのも似たような感じだと思います。

 

ですが、「世の中」とは異なり、「人生」に関しては個人個人の価値観が主役だと思うのです。

ですので、上述のような考え方があってもいいし、そうでない考え方があってもいいのです。

これは「世の中が金で動いている」というコントロール不可能な事実とは違い、

自分で決められる、決めるべきものなのです。

 

ここで陥りがちな罠なのですが、

人は「金がない」と往々にして不利な立場に立たされることがあります。

ですが、その際に「金がないから自分の人生は価値がない」と考えるのは飛躍がある気がします。

「たまたま不利な立場に立つことは、金の有無にかかわらずあるもので、

今回の苦境は金がないことによる」という場合も多いと思うのです。

 

もう一つ、金がある側は不遜にも「世の中は金」だけではなく「人生は金」を押し付けてきます。

そうすることで、彼らはより多くの人を操ることができるのを知っているからです。

「金があれば人を思いのままにできる」というのは、つまるところ

「人生は金」という共通認識があればこそです。

 

本来、人は金で動かなければいけない理由はないとおもいます。

ただ、その人が「世の中」側として動く場合は(仕事とか)ある程度それもやむなしでしょう。

ただし、それを自分の人生そのものにそのまま当てはめてしまうのは余りにもお人よし過ぎる感があります。

「その金は今の自分には要らない」というケースは、じつは多いのではないかと思います。

学校はよく働くカモを生産する機関

実際に仕事をしたり、あるいは社会で生活したりする際に

必要になる知識は、「お金」と「法律」だといっていいんじゃないでしょうか。

しかし、公教育ではそのどちらについても全く子供に教えることがありません。

これは、そのほうが一部の人間にとって都合がいいからだという以外に

説明のつけようのない現象なのではないかと思います。

 

たとえばモノの値段の決まり方だとか法の基本精神だとか

そういう概念的なものについては一応授業でさらっと触れることはあるでしょう。

しかし、現実に起こりうるケースとしての「契約」「交渉」に関する事例について教わることは皆無です。

賃貸の契約やら、就業に関する法律やら、そういうことについて学校は一切教えてくれません。

ごく一部の生徒しか将来的に使う必要のない微分積分についてはそれなりの数の生徒が学習しているにもかかわらず、

ほぼ全員が直面する上記のような事態についてまるで前提知識を与えられないまま

社会に巣立っていくのがこの国の学生です。

 

なまじ知識をつけられ、企業や大家に法律を武器にたてつくような労働者が

増えてしまっては都合が悪いのでしょう。

そうでない人間を生産するために教育カリキュラムができていると考えることはできないでしょうか。

「労働者は文句を言わず、押し付けられたルールに従いせっせと働いて貢げ」という

社会からのメッセージを感じざるを得ません。

このように、一部の人間にとって都合の良い働き蜂をつくるというのが

この国の慣習であり、国策です。

「お金に対してがめついのは醜い」「裁判沙汰なんておだやかでない」

という風潮も、すべて波風を立たせずに上に従うことを是とすることに同じです。

 

親だけではなく、こういった「誰かの都合」に過ぎない美徳や価値観に倣って生きるのも

一つの生き方でしょう。

しかし、それを拒否して生きる自由はだれにもあるのだと思います。

メディアにどっぷり毒された社会

いまさら何をという感じもしますが、

我々が常識だと思って受け入れている価値基準のうち

相当の部分はメディアの植え付けと言っていいと思います。

 

トヨタ ウェルキャブスペシャルムービー「親子に同じ質問をしてみた」篇 ...

こういうCMは非常に典型的で、

「親>子供」という図式を押し付けてきます。

親の方が子供のことを思っている。

子供は普段それを意識しなさすぎる。

だから親に感謝しよう。

 

こういうものが平気で「感動した」というコメントをもらう限り、

自由な社会はまだ遠いなあと感じます。

 

良く考えてください。

CMです。

それを見る人に車を売るための映像です。

決してそれを見る人に精神的な充足感を与えたり、

人生に対してなにか大切なことを気づかせてくれたりするような類のものではないはずです。

それが第一の目的であれば映像の最後に車の宣伝が入るわけないだろう。

親がいる成人した子供とか、あるいは結婚して孫がいるような親でしょうか。

とにかく、ターゲットを絞り、それに車を買わせる、というのが目的のものに、

「感動した」なんてコメントしている人は企業からしてみれば格好のカモなんでしょう。

台本があるのか、出演者は本当にエキストラなのか、その辺はいろいろ可能性があるにしても、

「どういう層にどういうメッセージを打ち出すか」

「そのCMでどの層がどれくらい買ってくれそうか」

が明確でない企画が通るとは思えないので、

CMというのは(当たり前すぎですが)かなり偏向的なものだといっていいでしょう。

 

テレビや新聞、漫画、小説、ビジネス書、何でもいいですが、

これらはすべて「商品」であって、

人生の正解や真理のメッセージなどではありません。

たくさんお金を動かすものがえらいという世界であって、

それ以外の価値観で動いているということは結局のところないといっていいでしょう。

 

ですので、これらはなるべく多くの人にとってわかりやすく、

受け入れられやすいメッセージをこめて作られます。

ドキュメンタリーでさえ、複雑で入り組んでいるはずの取材対象の人生を

30分とかそういう決まった時間ですっきりと視聴者が理解できるような

筋道でもって描いてしまうのです。

繰り返しますが、これらは「金儲けのためのファンタジー」であって、

人生のあるべき姿でも、目指すべきゴールの例でもなんでもないのです。

 

 

私の親はテレビばかり見ています。

これには本当にうんざりさせられました。

流動食のように何にも考えなくても消化できるようになったコンテンツで得た

安っぽい人生訓を聞かされて育ちました。

しかも、当たり前ですが、そういったコンテンツのうち、

自分に都合の良いところを抜き出してさもそれが人生の正しい姿であるように

押し付けてくるのです。

 

本当の人生は、30分のドキュメンタリーのように

一本道のきれいなストーリーなんかではないし、

むしろそんなふうにまとめきれないところに

面白さや味わい深さがあるのではないかと思います。

しかし私の親のような人間は、

「テレビのようでない」自分の人生や、

「漫画の主人公のようでない」自分自身に勝手に絶望し、

そのようにメディアから植えつけられた不満や自己嫌悪をこちらにぶつけてくるのです。

 

我々としては、ぜひそういう層の人たちの悪影響を受けないように

気をつけなくては、と自戒するのみです。

とにかく「夢や物語のない人生はくだらない」みたいなことを

いい年をした大人が平気で口にしていてはいけないのでは、と思います。

私は人生の旨味はそんなところにはない、と信じています。

育ちの影響力の大きさ、そして脱却

毒親ということでしばらくは記事を書いてきたのですが、

なぜそこまで親にこだわってばかりいるのか、

と思われる方もいるとおもいます。

 

やはりそれは、

「親の影響力、ひいては育ちの影響力は大きい」

からだと思います。

 

これについては自分の意識に上ってくること自体が

30歳を過ぎるまで全くなかったのですが、

裏を返せばそれだけ「当たり前、自然」に

自分の考え方や癖、行動基準に溶け込んでいるのが

「育ち」の部分なのです。

 

周りの人を見ているとなんとなくその人の親がどういう人なのか

想像できる気がしませんか?

私の知る限りでは、魅力的な人の親は大体魅力的な人だった気がします。

逆に、一見うまくいっている家庭を取り繕っている感じの親はすぐわかります。

これは皆さんも子供時代に友達の家に遊びに行くと感じたのではないでしょうか?

 

そうなるといわゆる「毒親」持ちの人は相当なハンデを背負うことになるのですが、

育ちの影響力は大きいし、そのために若いころに味わった苦しみはなくなりませんが、

でも、親の悪影響から脱却することは実は可能なのではないかと最近強く思うのです。

 

いわゆる「アドラー心理学」といわれる考え方では、

(「嫌われる勇気」が有名ですね)

トラウマというのは存在せず、端的に言えば自分の欠点の言い訳に使っている

という主張があるようです。

これはさすがに極端だという気もしますし、トラウマは実際にあるんだろうと思います。

しかし、それにずっと縛られて生きるしかないかどうかというのはまた別の問題です。

私の場合、

「親や、親を中心とした公教育の歪んだ考え方が自分の人格に大きな影響を与えた」

ことに気づいてから、日常のあらゆる場面で「親由来でない」目線で物事をとらえることを意識するようになりました。

そうすることで、これまで困難だと思っていたことや、やってはいけないと思っていたことについて、

「実はそうではない」

という判断に至ったことがたくさんありました。

つまり、これまでの人生で当たり前のように用いてきた判断基準について、

もう一度新鮮な気持ちでそれらをとらえ直し、

自分自身を再構築するという気持ちで今は毎日を過ごしています。

 

たとえば、「他人に気を配り、不愉快にさせない」

ことは一見いいように思えます。

しかし、それで自分が過剰にストレスをため込んでしまったらどうでしょう。

「自分だけが我慢すればいい」という考え方もあるでしょう。

しかし、それがもとで心身にダメージを負った場合、

それを本当に自分だけで消化できるのでしょうか?

多くの場合、どこかほかのところにその影響が出るので、

結局他人を巻き込むことになるのではと思います。

 

この場合、何がまずいのかというと、

今までは「じゃあ我慢できるような強い自分になる」

というような考え方で問題をとらえていたのですね。

つまり、「自分の未熟さが原因であって、

より人格を磨けばストレスにも耐えられる」

という解決を図っていたのです。

でも現実はストレスが大きくなる一方で、

とても人格を磨く余裕なんかない。

自分はなんて心の狭い人間だ、

という悪循環にはまっていたんですね。

 

今なら、

「ストレスを感じた場合、その影響をほかの人に与えないなんてまず無理」

と思います。

なので、

「では、ストレスを感じないように行動するのがよい」

「そのためには、遣わなくていい気は遣わない」

という判断に落ち着いています。

これは「人格を磨けば何とかなる」

という非現実的な願望を捨てることと同じです。

つまり、「ストレスを感じない人格者な私」という幻想を捨てることです。

そうではなく、「ストレスを感じてしまう非人格者な私」という現実を受け入れることです。

そのうえで、現実に即した解決を考えた結果見えてきた結論でした。

 

そもそも「気を遣う」ことで相手がいい気持ちになるかどうかも怪しいものです。

多くの場合、「気を遣われている」ことに相手は気づきます。

そして「気を遣われる」ことに対して居心地の悪さを感じる方もいます。

 

ここで、以前なら「では気を遣われていると気づかせないくらいうまい気の使い方をする」

というようなむちゃくちゃな解決に飛びついていたのが以前の私です。

そうではなく、そもそも気を遣うこと自体の是非をきちんと考えると、

気を遣わなくていい場面は結構あるぞということに気が付くわけです。

このへんの行動の是非、必要性については疑問をさしはさまず、

あくまでいかに自分が犠牲になれば問題が解決するかという考え方しか

できていなかったのです。

それで、現実の自分からかけ離れた「理想の自分」になることで解決しようとして、

それが達成できずに苦しんでいたわけです。

 

これが育ちの影響でなくてなんなのだ、と思います。

ただ、「自分の育ち方はおかしかった」ことに気づけば、

現実の自分を見つめ、現実的で力強い生き方が生まれてくると思います。

 

 

 

大学時代、音楽サークルに入っていました。

どちらかというとパッとしないサークルで、

パッとしない人たちが演奏していました。

私はそんな自分のパッとしない青春時代があまり好きではありませんでした。

 

最近、当時のサークルの友人が録音していた演奏会の音源を聞く機会がありました。

ひどい音質で、演奏は下手です。

ですが、こういうのを聞いた時に「若気の至り」で恥ずかしい、と思うんだろうな

という自分の予想とは裏腹に、

懐かしさだけがこみ上げてきました。

自分のパッとしない青春を受け入れることができました。

 

その後友人たちと久々に会う機会があり、

彼らは一見パッとしないながらも実はしっかり魅力のある人たちだった

ということに気が付いたのです。

やや地味ながら、しっかり自分の人生を生きている仲間でした。

 

「外からの基準」を気にして生きるように親も、公教育も、社会も仕向けてきます。

気を抜いているとすぐにそういう考え方に毒されてしまいます。

なぜなら、人の目を気にするように仕向けられている大勢の人間を、

それをわかっている少数の人間が食い物にするという構図が

この世界には厳然と存在するためです。

 

そして、毒親たちは残念ながら食い物にされる側の人間です。

そんな人たちの考え方は「食い物にされる」考え方です。

一刻も早く自分を再構築することでその悪影響を振り払いましょう。

 

毒親の子供に対する恐れ

私自身現在子供を持つようになって思うのが、

なぜ私の父は子供に

「誰のおかげで飯を食えてると思ってるんだ」とか

「言ってわからないなら体でわからせる」とか

そういう脅しをかけてきたのか、というのがまるで理解できないという点です。

なぜなら、全く自分の子供に対してそういう感情を持てないからです。

ただ大切で、ただ可愛い、と思うばかりでして、

「食わせてやってる」とか、「体でわからせてやる」とか

そんな物騒な考えはこれっぽっちも頭に浮かんできません。

もちろん、子供がなかなかこちらの思うとおりに行動してくれないときに

(これは子供なんだから当たり前)

イライラすることはあります。

でも、イライラして「勘弁してくれ」と思いつつも、

「子供なんだからこれが自然で怒ってもしょうがないよな」という考えが

常に頭の片隅にあるのです。

 

これは別に私が特に立派な人間だとかいいたいわけではなく、

わりとたくさんの親がそういう気持ちで子どもと向き合っている、というのが事実だと思います。

これが親として「ふつう」なのだ、と思います。

私に限らず、毒親育ちは「世間の親は自分の親と同じように考える」

「世間の大人は自分の親と同じように考える」と

刷り込まれて生きてきました。

なので、自分の親の異常性に気づくには成人後それなりに時間がかかってしまいます。

それも、きっかけがないとなかなか自分の親をおかしいと思うことはできません。

「やはり自分の親はおかしい」と気づくためには、

そうでない、もっと楽に幸せに生きている人たちがいっぱいいるということに気づく必要があるのです。

 

私の場合それは妻とその家族との出会いでした。

妻はとにかくのびのびした人で、

「末っ子だから甘い」と自分で言っていますが、

きちんと大人として自立した人で(当たり前ですが)

私は特にネガティブな印象を受けることはありませんでした。

彼女は私に気を遣って何かを言い出せないということがなく、

したいことはしたいとはっきり言う人なので、

それに対してこちらが気を遣うことがありません。

その理由が分かったのが彼女の実家に初めてお邪魔した時でした。

彼女の親、兄弟も、みなのびのびした人たちだったのです。

 

「自分の家族とこうも違うものか」

と今でも思っています。

そして私は妻の実家のごく近くに住んでおり、

仲良くお付き合いいただいています。

正直、実家よりも全然居心地がよいです。

 

私の父は中学校の美術教師でした。

田舎の中学校というのは、なかなかやんちゃな生徒が多いようで、

その対処に追われていたのだろうと想像がつきます。

そのせいなのでしょうか、

「なめられないように力で押さえつける」

結局、それが父の子供への接し方のすべてでした。

自慢げに「こういう悪い生徒がいたから二、三発殴った」とか

比較的学校の成績のよかった私に対して「俺も中学の時は一番だった」とか

絵を志した弟に対し、「俺も美術科の出身で、お前の絵はたいしたことない」とか、

そういう言動ばかりでした。

 

また、私が中高生のある時に、

「自分はそれなりに自立できる気がする」と何気なく言ったら、

「じゃあおまえ明日から全部自分で稼げ。この家の汚したところも全部掃除しろ」

などとむちゃくちゃなことを言ったことがあり、私は唖然としたのを覚えています。

 

とにかく、一事が万事こうなのです。

私の父にとっては、圧倒的に親は子供よりも上で、

子供に親が負けるなんてことがあってはいけないのです。

 

また、父は絵の腕に自信をもっているように見えました。

いや、本当は自信がなかったのかもしれません。

とにかく私や弟たちが絵を描くと、

それをほめるどころか、ケチをつけ、

いかに私たちに絵の才能がないかという話をするだけでした。

また、母も父と同じ大学出身で、

どうやら母は父の絵をうまいと思っているらしく、

そんな父から私たちを庇うどころか、

同調して絵をけなすばかりでした。

私は絵が好きだったのですが、

いつも「どうせ自分は下手だから」と思うようになりました。

学校で描いた絵を親に見せるのは何よりも苦痛でした。

「まあ、あんまりうまくないんだけど」

なんて自分で言いながら、一生懸命描いた絵を見せるのはたまらなかったです。

 

 

私は今、数学や自然科学を基本に、工学の分野で働いています。

これは本当に面白く、かつ奥深い分野です。

大天才ならともかく、私の場合はまだまだ自分の力不足を痛感する日々です。

それというのも、世界にはとんでもなく優秀な研究者がたくさんいて、

自分などは全然そのレベルに達していないなあと思うことばかりだからです。

でも、そういう毎日は嫌いではありません。

 

もし自分の子供がたとえば算数とか理科やなんかで、

知っている些細なことを自慢げに話してきたとしましょう。

あるいは、自分から見てちょっとまだまだだな、と思うレベルだったとしましょう。

そういう時、私は父のように

「いかにおまえのレベルが低いか」なんて物言いをする自分が想像できないのです。

なぜならば、学ぶことがたくさんあるという点では

自分も子供も全く同じであり、

自分の方が年を取っている分だけほんの少し知識が多いにすぎないからです。

むしろ、子供の興味の対象について、

それを面白がり、一緒に考えたり、意見を交換したりするでしょう。

学問は、競争の道具にするにはあまりにも懐が深い世界なのです。

非専門家を「素人」呼ばわりしてバカにする等、自身のレベルの低さを示す行為でしかありません。

 

おそらく、芸術の世界だってきっとそうでしょう。

懐が深く、プロからアマチュアまで、万人がその素晴らしさを享受できるだけの素晴らしい世界だと思います。

しかるに、私の父の情けない態度。

これは、父が謙虚さを持たず、かつ結局のところ美術に対しての自信がないがために、

素晴らしい美術の世界を子供を威圧する道具にしてしまったとういうことだと思います。

 

父は、「本当は絵描きになりたかったが、自分の父親に反対されて美術教師になった」

と言います。

そして、「だからお前たちの進路について俺は口出ししない」と言っていました。

私はそれに感心したものでした。

ですが、本当に「父親が反対した」ために「美術教師になった」のかどうか、

実は事実を確かめるすべがありません。

ひょっとすると、「自分を信じて挑戦する勇気がなかった」だけかもしれないのです。

そして、世界を相手に自分の可能性を試せないまま年をとってしまった。

何も知らない子供に「いかに自分は絵の才能があるか」を吹き込んだ。

そんな可能性も考えられます。

 

もちろんこれは私の想像にすぎません。

ですが、本当に心から美術を愛する人は、

美術に興味を持ち、それに触れる子供を喜ばしく思うはずです。

そして、自分と同じ「学ぶ仲間」として暖かく迎え入れるはずです。

少なくとも、工学の世界において私はそういう気持ちでいます。

というか、そうでないとあっという間に成長が止まってしまいます。

父はきっと美術というフィールドでの成長をやめた自分を知っているのでしょう。

そして、「美術」で勝負しなくてもいい世界を選んだ。

 

そんな人の懐古に振り回されていたなんて、なんてしょーもないんだろう。

今は強くそう思えます。

毒親と生きづらさ

アダルトチルドレンという言葉があります。

アダルトチルドレン - Wikipedia

 

毒親との関連性で語られる際には、

自我が抑圧され、その影響が成人後も尾を引いているという状態と言ってよさそうです。

 この「自我の抑制」が「生きづらさ」の正体である場合が非常に多いのではないか、

ひょっとすると日本社会全体を覆う閉塞感の一因といっては大げさかもしれませんが、

とにかく実は現代日本の仕組みと生きづらさと無関係ではないのではと思います。

 

前提として、親が子供の行動に制限を加えることは当然です。

たとえば、子供自身を含め、誰かの生命を危険にさらす行為や、

窃盗やいじめのような犯罪行為について、

その是非を知らない子供がそれを試みた場合、

これを止めるのは親の義務です。

 

ここでいう親による「自我の抑制」は、上記に該当しない子供の自発的な意思による行動について、

親が恣意的にそれを許可しないことに該当します。

たとえば、子供が好きなキャラクターについて

「そんなものはくだらない」だとか、

子供の好きな(危険でなく、犯罪でない)遊びについて、

「それをやってるとバカになる」だとか、

こういう感じの否定の仕方をすることです。

 

なぜこういった否定がよくないかというと、

これを続けると子供は「好きなことは否定される」前提で行動をします。

すなわち、基本的に自我を出すのをあきらめるようになります。

それが親にとって都合のいい「いい子」だったりして、

子供への攻撃が和らいだ場合、以後子供は基本的にそういう路線で生きてくことになります。

「自我を出す」という選択肢が子どもの人生から消えていくのです。

 

そしてこれが、「自我を出す」ことについて消極的な日本の公教育や

社会的な道徳規範と重なることで、

「自我を出さず、他人の足手まといにならない」人間が大量生産されます。

こういった人たちは、そういう考えを持たない人たちにとっては

格好の部下であったり、妻であったりするわけです。

ルールを守り、律儀に働き、世の中のために尽くす。

日本社会はこういった人たちの働きによってなんとかうまく機能しているように見えます。

 

ところが、そういった人の犠牲で外国に勝ち、

たくさん外貨をもらってこれる時代が終わろうとしています。

つまり、「自我を出さない」人たちがまじめに長時間働いたところで

それが安い外国人労働力のせいで競争力にならなくなってしまったのです。

こうなってくると、「自我を出さず」働いてきた人たちへの冷遇が始まります。

すると、「真面目にいうことを聞いて尽くしてきたのに恵まれない」人が増えていく。

「働いても働いても報われない」状況があちらこちらで起こってくる。

このあたりが、最近「生きづらい」という声がいろいろと出てきた理由の一つになるのではと思います。

 

まとめると、

昔の日本は「子供の自我を抑圧する」親および社会によって

一握りの「自我を出す」層と、多数の「自我を出さない」層に分かれており、

後者のまじめさ、律儀さ、献身性によって人件費に比して質の良い労働力が供給されており、

これによって日本は豊かになっていた。

そのおかげで、後者の人たちも(前者ほどではないが)経済的な恩恵を受けており、

ある程度は自我を抑圧して真面目に生きても報われているような気分でいられた。

しかし、安価な労働力が国境を越えて利用可能になったために

単に真面目に文句を言わず働くというだけでは徐々に報われなくなってしまった。

 

ということだと思います。

つまり、毒親の教育は害悪であるというのは、

もはやそれが時代遅れの教育であり、

日本を滅亡に導く教育であるという意味でかなり深刻な状況になってきているのです。

大げさなようですが、私としてはこれをひしひし感じますし、

上の世代と話をする時の一番の違和感はこれです。

 

では、「真面目さ」「律義さ」を否定すべきか?

それらは働く上で大切なのではないか?

という疑問が当然生じます。

これについては、条件付きでYesというのが答えなのではないかと思います。

それについては、また後日。

毒親は毒を隠そうとするが、隠せない

毒親は、おそらく自分の毒について無意識的に気づいているパターンが多いです。

ただし、それは「反省し、改善すべき毒」としてではなく、

「外ではこういう態度をすると人格を疑われる」

ポイントについて本能的に知っていて、

そのうえで第三者の目がない家族の中でそういった言動を取る、

というものです。

世間体を気にする毒親という生き物は、

他人にはとてもできないようなことを

「家の中だから、相手が自分の子供だから」という理由で

容赦なく行うのです。

書いてて腹が立ってきますね(笑)

 

ここで、常に子供にそういう態度をとるかというと

私の親の場合はそうでもありませんでした。

これは私の親が「公立小中学校の教員であった」

という事情によるところが大きいと思います。

(ちなみに後日改めて記事にすると思いますが、

「親が公立の教師」は場合によっては子供にとって相当な心理的負担になりえます。

当然ですが、すべての公立教師がそうというわけではありません。

素晴らしい先生方も世の中にはたくさんいらっしゃいます)

公立小中学校の教員は非常に狭い世界で生きています。

私の出身地では同じ市内のみで転任するというシステムでしたので、

勤め始めて10年もすれば市内のほぼすべての教員を

何らかの形で知っているという状況になっていたのではと思います。

そして、教員自身の住所はその市内なのです。

つまり、下手に家庭に問題があるということになった場合、

自分の職業である教員の世界で悪いうわさになってしまうわけです。

なので、子供の口から下手なことが担任に話されることについて、

普通の親よりも特に警戒していたのではないかと考えられます。

 

我々の常として、驚きの強い出来事のほうがよく覚えているし、

あとあと思い出すことが多いという性質があります。

これは自分の親が毒親かどうかについて判断する際

とてもよいことである反面、

毒親の影響をひきずる原因でもあります。

なぜなら、毒親が日常の99%を取り繕うことができても、

残りの1%で毒を子供に与えてしまった場合、

子供は「1%だった」としてそれを忘れてしまうことがないからです。

 

 

「うちの親は大体優しいけど、時々不機嫌なことがある」

これは毒親とは言いません。

それは人としてとても自然なこと。

余裕がなくて不機嫌になることはだれにでもあります。

 

「うちの親は不機嫌なことが多い」

これはちょっと嫌ですけど、

私はこれだけで毒親とは言えないと思います。

 

私が思うに、「不機嫌の頻度」が問題なのではなくて、

「ごくたまにであっても、こちらの存在価値を脅かすような言動を取る」

これが毒親です。

不機嫌な時にどのような対応をとるかについては人によって異なりますが、

私が成長するにつれて気づいたこととして、

「機嫌が悪くこちらに対し怒っていても、こちらを脅す言動を決してとらない」

という人たちが世の中にはたくさんいるのです。

おそらく、そもそもそういう人たちは

脅すことで相手を屈服させるという選択肢が最初からないのだと思います。

 そういう人たちは「自分が何に対して怒っているのか」を

明確に伝える聡明さがあります。

 

これに対し、毒親は「俺はお前が気に入らない」ということをこちらに突き付ける際、

もっともこちらが自己嫌悪に陥る言葉をためらいなく容赦なく浴びせます。

この理不尽な怒りを解く方法は基本的にありません。

どのような反論、謝罪も彼らは受け付けないのです。

ただ子供たちは怒りが静まるのを待つのみです。

 

子供は親に愛されたいので、

ひどい目にあっても親の期限がいい時間が続くと

「あれは自分が悪かった」と自分を納得させようとします。

しかし、私のように親元を離れてしばらくして

年月のフィルターを通して残った親との思い出が

親が自分に対してとった残酷な言動ばかりという方は

少なからずいるのではないかと思います。

このように、毒親の毒は結局はあらわになってしまうものなのでしょう。