読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

手綱獲りの旅

いつのまにか時は流れおっさんになってしまってました。

大人になって思い出す「いい先生」は、地味な先生だったりする

学生時代の先生のことを思い出すとき、

私の場合「いい先生だったな」と思う先生は、あまりキャラクターの強くない、

どちらかというと地味な先生です。

熱血系の先生や、教育における理想を掲げて頑張ってる先生や、

名物的なキャラ強めの先生なんかが担任だったこともありますが、

大人になってからそういう人を振り返ってみると、

どこかいびつで薄っぺらい人たちだったという結論にたどり着いてしまうわけです。

 

多分そういう人たちは、本当の意味で自分の頭で真剣に何が大切なのかを考えることを

ほったらかしにしたまま大人になってしまったのではないかと思います。

どこかで聞いたことのあるような安い正義感に満ちたセリフだったり、

あきらかに「型破り」を意識した言動だったり、

やっぱりなんだか結局は「自分がどうみられるか」しかないんだろうなという感じ。

 

私は「優等生」側の人間で、「不良」側の人間が嫌いでした。

(まあいまでも嫌いですが)

で、不思議なことにそういう先生たちは不良連中になぜか理解を示そうとすることがあります(いわゆる「不良は本当はいいやつ論」でしょうか)。

もしくは、完全にそれを嫌って優等生側ばかりを褒めそやすか、どちらかです。

 

私が振り返って、いい先生だな、と思う先生はそのどちらでもありませんでした。

不良側にはやっぱり悪いことは悪いと言っていたし、

我々側にも、「奴らを排除したいという気持ちはわかるが、気に入らない人間というのはどこに行ってもいるもんだよ」とそれとなく教えてくれていた気がするのです。

そういう、地に足の着いた世の中の見方を教えてくれた先生は実は多くなく、

また目立ちません。

 

しかし、ある程度おっさんになって思い出されるのは、

そういう、地味だけどしっかりした先生の存在でした。

多分、自分なりの人生観をしっかり考えて作ってきた大人、という意味で

当時はよくわからなくても、年を取ってから共感できる部分があるということなのかと思います。

正しいとか正しくないとかではなく、自分の経験に裏打ちされた

「私にとって世界というのはこうだ」という話は、

たとえ自分の世界観にそぐわないとしても味わいのあるものです。

成果がないことよりも、ごまかしの上に成り立っていることのほうがあとあと厄介かもしれない

どんな仕事にせよ、成果がある、というのは何かと心強いものです。

キャリアアップや転職など、将来自分をアピールする際の材料となるためです。

ただ、それが実際よりも大きく評価されたとしたらどうでしょうか。

あるいは、大きく見せてしまって、それが評価されてしまって引くに引けなくなってしまったとしたら・・・

 

「すみませんあれは嘘なんです」

と後で言うことができる場面はかなり限られてきそうです。

なので、もうそれは「本当のこと」にしてしまって、

そのうえで次をやっていくしかない、というのが実情でしょう。

つまり、一度ごまかしをしてそれで評価されてしまったら、

もうそれをなかったことにはできないというように世の中できてしまっているようです。

 

そうしてごまかし続けられるならよいのですが、

いくつか問題があります。

まず、意外に人生の時間スケール(数十年)というのは、

長すぎることはないもののそれで逃げ切れるほどは短くないようです。

すなわち、生きているうちにまいた種は、

わりと生きているうちに影響してくるようです。

大きな会社の粉飾決算がばれちゃったりするあたり、

これはかなりの場合当てはまりそうです。

 

あとはですね、何でも「ばれてないと思ってるのは自分だけ」

というところがあります。

評価されているようで、内心「まあでもこの人ごまかしてるよね」

というのは薄々気づかれていたりするものです。

ではどうしてそれに気づいているのに「評価していることにして」

その人に仕事を回したりするかというと、

「だまされたふりをしてもその人を評価しているふりをする」

ことが得だからだと思います。

なので、こういう場合、利用価値がなくなったらあっさり捨てられると思います。

その際はもともと「ごまかし」がある分だけ手痛く捨てられることになるかもしれません。

 

そして最大の問題は、

「結局自分をだますことはできない」

という点です。

ごまかしている自分はなにより自分がよく知っています。

そんな精神状態では、何らの称賛も結局心を満たすことはないでしょう。

 

そして怖いのが、それに気づいてもなかなかその状態をやめられないことです。

なので、ごまかしをやるというのはかなりの確率で片道切符になることを肝に銘じておくのがいいのではないかと思います。

生き延びることを至上命題にすれば平和かもしれない

人生の意味、だとか、理想の恋人、だとか、仕事の流儀、だとか、

そういうのはいったんおいといて、

「とにかく今日をできるだけ前向きな形で生き延びる」

ことだけを考えて日々を過ごしているような気がします。

その結果、結構調子がいいし、仕事でも家庭でもイライラすることがとても減りました。

また、仕事での成果も出やすくなっている気がします。

特に、第二子が生まれて家庭での忙しさがますます増えるようになったので、

この効果は絶大です。

 

思うのですが、「理想」をもって、それに向かってポジティブに頑張れる人がどれくらいの割合でいるのでしょうか。

私は残念ながらそうではないようで、

理想達成型で人生を送ろうとしていた時は、

理想からほど遠い現実を嘆くばかりで、

何事もろくに集中できていなかったような気がします。

そうなると、人間は何とかして現状に理由付けをしようとします。

そうすると、以前書いたように非現実的な解決案を本気で信じたり、

誰かを悪者にしてみたりと、

およそ前向きな地に足の着いたやりかたからは遠ざかるばかりでした。

 

かように、「理想」は危険です。

これは「隣の芝」と言い換えてもいいかもしれません。

というのは、往々にして「理想」は根拠が薄弱です。

「なんとなくその状態がよさそうだから」程度のものであることが多いのではないでしょうか。

にもかかわらず、理想から遠い状況に置かれると人は苛立ち、周りを呪う傾向が強まります。

「育児に積極的でかつ収入も多い夫」だとか、

「実家の両親とうまくやってくれて家事も完璧で美人で優しい妻」だとか、

そういうのが「危ない理想」の典型です。

そういう理想を本気で信じてしまうと、そうでない夫、妻を責め、軽んじるようになります。

目の前の人や状況をないがしろにして、今以上に人生がよくなることはないと思います。

 

それよりも、現実をベースにして、

ひとつひとつ少しずつ自分の思う通りの人生に近づける、という作業のほうがずっと簡単でかつストレスを作らないと思います。

その際に、「何が自分にとって本当に大切か」をきちんと見極めることに

相当の時間を使うのが結局は幸せな状態への近道なのではないかと思うのです。

そうすることで、「理想」から解き放たれた自分の人生の軸が見えてくるはずで、

それを基礎にして人生を構築すればわりと十分な気がします。

結局一日24時間ですし、人生は数十年で、すべてを手に入れるにはあまりに短いです。

なので、「何が大切か」について真剣に考え抜いて、

それ以外はある程度あきらめる、というのが

今の私の好きな生き方です。

そうすることで、結構いろいろと手に入る気がするのです。

人の人生を勝手に断じてはいけない

タイトルのまんまなんですが、

テレビなんかで「あの人は今」みたいなのがウケるのは、

なんというか、人の人生を評価する快感があるからだと思うんですね。

「あ~ちょっとうまいことやったけど結局落ち目になったな」とか、

「転身してボランティアみたいなことやってるのえらいな」とか、

なんでもいいんだと思うんですけど、

人の人生を断ずる、これは結構な快感なんでしょうね。

 

でも、それはやっぱり下品だと思うんだよな。

はたから見て哀れな生活に見えても、

本人的にはものすごくそれで楽しいし、

じつはあまり周りに迷惑も掛かってない場合って決して少なくないと思う。

それなのに、勝手に「かわいそうだ」とか「負け組」とかレッテルを張るのは、

結局そうやって人の人生を断じたい、とう一心なんだろう。

 

それで「自分はそうじゃなくてよかった」なんて自分を安心させるのは

やっぱり下品だと思うし、

そういう人はやっぱり自分の人生もネガティブに断じちゃってるのかもしれない。

 

私は「探偵ナイトスクープ」という番組が好きで時々見る。

あの番組は一般の方に焦点を当てて作る今時珍しい番組で、

いい意味でテレビ的でないところがある。

予定調和感がほとんどないのだ。

 

で、その一般の方というのがなんとも面白く、

例えば「鍋が大好きなコワモテの父親に、夕食の鍋の頻度を下げてもらうように小学生の子供がお願いする」なんていう回があったりする。

子供としては初めて父親に面と向かってお願いするので真剣なんだけど、

お願いの内容がどこかとぼけている感じで面白い。

でも、勇気を出して話を切り出す子供と、それを笑いながら聞く父、そして応援する母親の姿に不思議な感動を覚えたものだった。

 

こんな感じで、「笑っていいのか泣いていいのかわからない」というような

一言で言い表せないような出来事は人生にたくさんある。

だが、多くのテレビでは「笑うところ」なのか「感動するところ」なのかを

テロップとか出演者のコメントとかで視聴者にわかりやすい形で切り出して提示してくる。

我々はいわば、どういう反応をすべきか常にカンペを出されながら視聴しているのだ。

ところがこの番組はあくまでカメラがとらえた出来事だけをこちらに突き付け、

それにどう反応するかは完全にこちらに投げっぱなしなのである。

この一点においてこの番組はすごい。

ちなみにこの「テレビ的でないテレビ番組」はかなりの長寿番組である。

 

で、まさに人を自分の先入観で断じたいタイプの人はこの番組はぴんと来ないのではと思うのだ。

ただ、私としては妙に納得してしまうものがあって、

やっぱり人生や、起こった出来事をそんな簡単に「負けだ」「勝ちだ」「不幸だ」「幸運だ」なんて言いきれないし、

まして他人に対してそれをやるなんてのはまさにテレビ的な押し付けと同じだなあと思うわけなのである。

いい人とかまじめな人とか、そういうのってダサいんですかね?

仕事柄大企業の技術職の人とかに会う機会があるんだけど、

酒を飲むと結構彼らは「昔悪かった」的な、あるいは「ほんとは結構テキトーにやってる俺」的なアピールをすることがある。

いい年してやめてくれ、とこっちとしては思うんだけど、

どうしてそんな態度をとりたがるんだろうと考えてみる。

 

おそらく彼らに、

「でもちゃーんと勉強して、一流の大学出て、大企業の安泰コースじゃないですか。

ぜんぜんはみだしてないし、ワルじゃないじゃないですか」

なんて言ったら、気まずい空気になるんだろう。

でもこれは間違ってないと思う。

察するに、そういうレールを外れていない自分が嫌なんだろうな。

 

しかし、どうしてそれがいやなんだろう。

大企業できちんと仕事をすることって、そんなにしょーもないことか?

はみ出して生きてりゃそれだけでかっこいいのか?

単にお人好しでまじめってんじゃつまらない人生か?

少なくとも私はそうは思わないな。

というか、本人好きでまじめやってんだったら他人がとやかくいうようなことじゃないよな。

 

昔っから、ヤンキー礼賛じゃないけど、とにかく地味にまじめにコツコツやる人はダサい、

というのをメディアは植え付けてくる。

 

勉強できる子 卑屈化社会

勉強できる子 卑屈化社会

 

まあ、「まじめにコツコツ」な「優等生」がはみ出し者に一発逆転される、というシナリオで溜飲を下げる人のほうが多いから

そういう筋書きにしたほうが儲かるということなんだろうと思うんだけど、

優等生側がそれを真に受けて優等生じゃないフリをする、

みたいなのがどうにも気持ち悪い。

いいんだよまじめな優等生で。

キモかろうがダサかろうが、それを本気で貫けば、中途半端にワルのふりしてるやつがたどり着けないところに行けるはずだよ。

ただ、やりたくもないのに優等生やってるってのはいただけないけどね。

仕事という意味では「代わりはいくらでもいる」のは間違いないだろうと思う

twitter.com

twitterを受けて。

 

件のブログ記事は読んでいないが、

私は今の仕事において私の代わりはいくらでもいると思っている。

というか、他の誰にもできない仕事なんて本質的にあるんだろうか。

もちろん、仕事をする人の個性が仕事の結果に反映される、というのはそうだろう。

でも、そういう細かい差異を除けば、地球上のたった一人のみが遂行できるゴールなんてほとんど存在しないでしょう。

それは万有引力を予言したニュートンとかでもたぶんそうで、

ニュートンが生まれなかったとしても、遅かれ早かれいずれ誰かはそれに気づいたと思うんだよな。

 

なお、コメントの中に、「キーマンが死んだことでつぶれかけたビジネスを見てきた」

的なのがあるけど、

それは「代わりがいない」ことの事例ではなく、

万一のときに代わりを見つけるまでの時間的、財政的などなどの余裕がないシステムの事例だと思うので、ちょっと違うんでないかな。

たとえば機内のパイロットがみんな心臓発作になったら飛行機落ちるけど、

地球上にパイロットはいっぱいいるでしょ。

 

んで、この記事は結局何を言いたいんだろう。

想像するに、「仕事においてあなたの代わりはいくらでもいる」として、それが悲しいと思いますか、という問題提起なのではないだろうか。

まあそれだけじゃないとは思うけど。

 

コレに関しては私は「いいえ、ちっとも」という答えだ。

むしろ代わりがいくらでもいるからいつでも辞められるし、

代わりがいくらでもいるから「自分のやっている仕事はしょせんそんなもの」と肩の力が抜ける。

仕事を神聖視して、仕事における能力と実績が人生のすべて、という考え方の人には受け入れられないだろうが。

でもまあ、肩の力が抜けているほうが何かといいんじゃないかと思いますよ。

そのほうが仕事も楽しくなるって。

 

ここで強く言いたいんだけど、

自分のプライベートな人間関係においては「あなたの代わりはいない」んですよ!

仕事を苦にして自殺しちゃったりしたら、

職場では代わりの人がやってきてわりとすぐに平常状態に戻るけど、

残された家族には一生消えない深い傷が残る。

そんなひどい話はないだろう。

 

というわけで、私としては

「仕事において代わりはいくらでもいる」は大変ありがたいことで、

決して苦にするようなことではないんだと強調したい。

職場なんかじゃなくて、本当に「あなたの代わりがいない」場所がある。

それを大切にしようじゃないですか。

いわゆるコンサル的な仕事術で果たして幸せになれるか?

効率化が叫ばれている。

いわゆるコンサル畑の出身者がそれぞれに効率化のメソッドを本にして出している。

曰く、「やるべきことが減る」「本当に必要な仕事を短時間で終わらせて、自分の時間ができる」

これは素敵だ、と思っていろいろと読んでみた。

 

なるほどと思ったところも多分にあるが、

私が根本的にコンサルタントという人種に対して信用を置いていないせいか、

これだ、と思えるほどの情報には巡り合えなかった。

テクニックである程度の問題は解決するけど、それでも残ってしまう問題が無視できないとでもいえばいいだろうか。

 

そもそもコンサルタントの本は、単に仕事の効率化のテクニックのみを述べれば十分なはずが、

いつの間にか彼らの議論の対象は人生とか人間の価値みたいなところまではみ出してしまうのである。

これは彼らの「稼いでいる自分たちは価値がある」という傲慢さの表れだろう。

「自分たちのような人生が一番いい人生で、お前らはうらやましいだろう」という思いが透けて見えるのである。

前回のエントリの「金がある、金を稼げるということがそのまま人間や人生の価値に結び付く」という短絡的な勘違いの典型的な形だと思う。

こんな感じで、あたかも「万能薬」みたいに自分の手法を喧伝する本はどうにも胡散臭い。

 

私の仕事は研究開発なので、ある程度は効率化できるが、

相手が自然である以上、どうしたって乗り越えなければいけない制約というのは存在する。

実験してうまくいかなければ問題点をさらいだし別の方法を考え再度試すよりない。

こういう時に万能薬的に役立つ処方箋はないといっていいだろう。

そして、そのようにしてどうにか開発したモノやメソッドについても、

やはり万能ではなく、限界がある。

むしろ、限界についてきちんと把握して説明することはとても重要だ。

こんな感じで、私の分野では効率化云々では到底たどり着けないゴールというのが厳然として存在する。

 

そしてそれは研究開発だけでなく、さまざまな職種にも言えることだと思うのだ。

むしろ、「顧客を信用させ、解決法を提案してお金をもらう」がゴールであるコンサル業界が特殊なのだ。

(解決法を提案して、であって、解決して、ではないのがポイント)

それははっきり言えば口八丁手八丁の世界であって、

地道な積み上げが必ずしもものをいうわけではないのではないか。

そういう世界であれば、「効率化」できる部分は非常に大きいと考えていいだろう。

つまり、職種によって「効率化」の効果は結構違う気がするのである。

で、たまたまその効果が大きい職種の人がいろいろ言っているんだなあ、と

そんな具合に考えるのである。

 

とりあえず、本当に面白いコンテンツとか、新技術とか、そういうのは

それを作るのに夢中になっちゃうような人のものすごい積み重ねでできているのがほとんどだろう。

スーパーマリオだとか、飛行機が効率化の産物とは思えないよね。

そういう仕事はやっぱり尊敬したくなるし、

そういう「種」になるものがないとコンサルタントなんてやりようがないと思うんだよな。

だからまあ、そういう積み上げの上に生まれた「種」にあぐらをかいて口先で金を動かしたり巻き上げたりしてるだけってところは少なからずあると思うので、

コンサル的な人たちはもうちょっと謙虚になってもいいんじゃないかな。

少なくとも稼いでるんだから、それで満足してくれ。

まちがっても人の人生を効率化しちゃいけないと思うぞ。

 

しかしだ、効率化を叫ぶ人たちは、

効率化競争のレースに乗っかって自分が優勝するという未来を信じてるのかな。

その行きつく先は破滅にしか思えないのが私のような凡人の感覚なんだと思うんだけど・・・