手綱獲りの旅

いつのまにか時は流れおっさんになってしまってました。

俺は二流だ

薄々感じていてもはっきり認めることができなかったこと。

それが、「俺は二流だ」ということ。

今日ようやくはっきり悟った。

 

この「二流」ってのが厄介で、

一見すると三流までおちるというところまでは現時点では至っていない。

周りの連中にも脅威を感じるような人材が少ない、というところもある。

だが、このままではじり貧でいずれ三流まで落ちるし、

その時にはもうやり直しのきかない年齢になっているだろうというのがはっきり分かったんだ。

三流ならもう少し危機感があったり、早く見切りをつけて違う世界に行ったんだろうが、

じり貧の二流という最悪なポジションに今の自分がいる。

 

なんというか、いい加減な仕事をごまかすことにエネルギーを使っていたんだな。

「この世界で腰を据えて生きていく」という覚悟が足りなかったんだろう。

とにかく、今の俺はじり貧の二流で、ここから抜け出さないといかんということだ。

コミュニケーションってどういうこと?

コミュニケーション能力が必要、とはよくいわれますが、

コミュニケーションっていったい何なんでしょう。

他人との意思の疎通のことをさすのであれば、

本当の意味でそれができている場面なんてほとんどないんじゃないのかな。

結局のところ、社長、とか、先輩、とか、上司、とか、部下、とか

彼氏、とか、親、とか、バンド仲間、とか、

そういう組織における立ち位置に応じて

なんとなく決まっている役割を演じる、ということであって、

それは「人間と話をする」よりも

「明示されていない台本の中身を想像して、なるべく適切に演じる」

という行為のような気がする。

つまり、コミュニケーションの対象は「ヒト」ではなく、「場」であり、「世間」なのです。

コミュニケーション能力が低いというのは、

相手と意思疎通ができないという意味ではなく、

「台本」の中身を推測し、うまく演じるのができないという意味です。

とりあえず、なぜそんなにも世間では大事だと言われているのかわからない「台本」に沿った人間関係は不毛な気がします。

口に出していったら鼻で笑われるんだろうけど

思うに、

「プロジェクト」という名前がついて、それで物事が進むというやりかたは

誰一人幸せにしないんじゃないだろうか。

プロジェクトをけん引する側も、その部品となって取り組む側も、

いつも互いにけん制しあい、表面上うまくやり、ストレスをため、

最後にどうしようもなくなったら責任の擦り付け合いをする、ということじゃないか。

「上手くいっているプロジェクトもある」のかもしれないが、

「上手くいっているように見せている」プロジェクトはたくさん見てきたが、

その実、本当にうまくいっているものは少ない。

 

プロジェクトにしないとお金が回ってこなくて、

プロジェクトにするとうまくいっているようにとりつくろわなくちゃいけなくて、

プロジェクトにするとそれに関係しないことは考えなくなる。

 

プロジェクトっていったいなんだ!?

ブラックかどうかは忙しいか忙しくないかで決まるのではない

忙しいとしんどい。

かたや、忙しくても平気などころかむしろ楽しそうな人もいる。

この差はなんだ?

忙しくて平気で、しかもそれを楽しめる人は

人間としてのレベルが上だとか、

忙しくてしんどいと言っている人は甘えてるとか、

そういうことか?

 

違うと思います。

このブログのタイトルにあるように、

「手綱を握っているかどうか」がすべてだと思う。

自分でコントロールでき、主導権を握っている部分が大きければ、

ある程度忙しくても、「自分で選んだ、やる価値があると信じていることをやっている」ので、

わりあい大丈夫。

一方で、「とりあえず家族を養わなきゃいけない」

「ほかに仕事の当てがない」

「代わりの人がいない」

といった、「自分がその仕事を選んで、その価値を信じている」というのとは

異なる部分が仕事をやる理由としてドミナントになってくると、

これはかなりしんどい。

経験上、しんどいのは100%このパターンだった。

ブラックかどうかというのは、

社員のどのくらいがこういう思いをしているか、だと思うな。

もちろん、人間休まないと体壊すから、

好きで信念があればいくらでも働けるわけではないので

労働時間が長すぎないのはすごく大事。

でも、それ以上に「やりたさ」「やりがい」がほとんど生まれてこないような職場は

間違いなくブラックでしょう。

それを見つけるのは個人の問題、というのもそうだとは思うけど、

人間ひどい環境だとあっという間に追い詰められるもので、

そういう環境だと「やりがい」「やりたさ」を見つける力も鈍るってもんよ。

だから、もう無理とおもったらとりあえず逃げてしまうのがいいんだな。

あるいは、「わがままで困ったやつになってやる!」と開き直るのもあり。

いざというときはいったんリセットするというのはとても大事。

というか、ほんとに一線を越えて心を壊しちゃうとそこまで頭が回らなくなって

取り返しがつかないことになりかねない。

ちらっと「死にたいな」と思い始めるあたりがギリギリのラインだと思ったほうがいい。

それをほったらかしにするのはかなり危ない。

これは完全に憶測でしかないけど、自殺する人は「酔っ払い」とおなじで、

冷静に考え直す、なんてできなくなってしまっているんだと思う。

それは「酒を飲んでも安全運転できる」というのが不可能なのと同じで、

まったくコントロールをなくしてしまうんだろう。

だから、ひとまず逃げましょう。

それと、自分を責めたくなったら、自分の持っていない、できないことでなく、

今までできたことや持っているものを数えるようにしましょう。

課題は「心の殻の破壊」と「合理的な自己防衛」

結構頑張っていて、そこそこ結果が出つつあるときは実は危ない。

つい、欲張って目標を高くしてしまう。

また、自分に力がついてきている自覚があるものだから、

つい、無理なお願いを引き受けてしまう。

そうすると、せっかく力がついてきて、結果も出てきているのに

結局無力感に襲われることになる。

目標を引き上げるのが早すぎるのだ。

また、つい余裕であるように勘違いすると、

気前が良くなり、自分のことの優先度を下げてしまう。

これもよくない。

余裕の有無にかかわらず、自分をまずは大切にし、最優先しなければ

本意の結果はまず得られない。

認識が甘かった。

 

で、結局自己嫌悪と自己否定になってしまうんだけど、

ちょっと待った。

目標をいきなり持ち上げすぎただけで、

出来ていることはたくさんある。

それをきちんと数えれば、自己否定なんてしなくていいことに気づく。

これは自分を守るための方法としてはなかなか筋がいいと思う。

また、余裕ができてくると「自分を大事にしない理由」「本当にやりたいことを我慢する理由」を見つけるようになる。

後でもできると甘く考えてしまう。心の殻にこもってしまう。

そうではなくて、やりたいんだからやるのだ。優先していいんだ。

自分を優先すること。これを覚えないと、結局食い物にされるだけだ。

悲しいけど、初めはそうする意識がなくてもだんだん「じゃあ・・・」ともたれかかられる。

そういう、「もたれてもいいですよ」的な態度をとるのはもうやめだ。

妙な「本気さ」「ガチさ」

「私は努力してるんで」

「俺、マジで頑張ってるんで」

「死ぬほど働いてますんで」

という感じで、努力している自分を臆面もなくアピールする姿はどうも気持ちが悪い。

特に、立場が上だったりうまくいった人がこれをやるのは、とても傲慢で、謙虚さを欠いている。

なぜか?

 

よっぽどのバカでない限り、

自分の成功をの原因を自分の力だけに帰結することはないだろうと思うからだ。

何かの結果において、運や状況など、自分のコントロールできないものの比率は大きい。

これをわかっていないのは単に経験が少なく、大した挑戦をやっていないということだろうと思う。

一生懸命やってもうまくいかないことなんていくらでもある。

それでも、一生懸命やるのは誰かにそれをアピールするためじゃなくて、

一生懸命やらないとただでさえ100%が保証されていない成功の確率がさらに下がり、ほとんどなくなってしまうからだ。

一生懸命やるなんてのは当然の話で、ある程度ちゃんとした人ならみんなやっている話なのだ。

だから、その中でたまたまうまくいったのであれば、謙虚に自分は幸運だったと思うのがまともな考え方だと思う。

 

どんな職業の人も人知れず大変さを抱えながら頑張っている、というのは当然のことだと思う。

ただ、多くの人はそれを表に出さないだけの矜持を持っているのだろう。

 

逆に、あまり必死さを表に出すとまずいのではないかという職種もある。

お笑いタレントなどはそうなのではないだろうか。

とある女性若手お笑いタレントの生活に密着して、という番組をちらっと見たが、

「絶対にビッグになる」

「昔自分をバカにした連中を見返してやる」

「ライブ前には練習をとてもたくさんやる」

「自分を追い詰めてネタを考える」

みたいな、「壮絶な芸人」像を強調する作りになっていた。

 

こんな風に自分を紹介されて大丈夫なのだろうか。

そんな芸人のネタを笑えるだろうか。

同情票のような人気がほしいと思っているのだろうか。

そもそも、「お笑い芸人」という普通の人なら目指さない、

ある種普通の仕事のセンスが通用しない世界なのに、

彼女の姿勢はまるでビジネスマンみたいなのである。

 

もちろん、戦略的に芸能界で長く生き残るために知恵を使うのは当然として、

それをここまで「必死な」感じで放送するのは

芸人としての寿命を縮めるのではないか、と余計な心配をしてしまった。

 

どうも最近、「こういう人が仕事ができる人」というイメージが

「職種にかかわらず」画一化してきている気がするのが心底気持ちが悪い。

(余談になるが、スーパーマーケットの品ぞろえがどの店でもほとんど変わらなくなっている。10年前はもう少しバラエティがあった。最大手以外のものがいろいろと取り揃えてある、というのが豊かさだと思うのだが、昨今の効率重視の流れではそういう意見は握りつぶされてしまうのか)

職種に応じて、もっというとより具体的な仕事の内容に応じて

「デキる人」(この言葉も嫌いだー)像は変わってくるのが道理だと思うのだが・・・

芸人なら、もっと破天荒でちゃらんぽらんで「こいつ大丈夫か」というような「芸人にでもなるしかしょうがない」タイプが

もっといてもいいような気がするのだが、

最近の芸人はすべからくビジネスマン的で小粒な印象を受けるのだ。

そしてこれは何も芸人だけではなくて、

「どうすればウケるか」ばかり気にして生きる小粒な世の中になっているような気がする。

「目標は」と聞かれたらとりあえず「世界にもっと笑顔を」と言っておけばいいような世の中だ。

 

本気、とか、ガチ、とか、そういうのは実は他人の目を前提とした区分であって、

結局「本気」と「そうでない」組に分けて、

「自分は「本気」組だから。おまえらとは違うから」みたいなことをいいたいだけなんじゃないかと思う。

私はそんなのは程度の低い話だと思っている。

 

より程度の高い、というか純度の高い基準としては、

「夢中」「没頭」があるのではないかと思う。

これは本気とかそうじゃないとかではなく、

もう物事の中に没入してしまって、

他人がどうとかいうのは一切関係がない、

純粋に個人内で完結する状態のことを指す。

そういう時間を増やしていきたいな。

大人になって思い出す「いい先生」は、地味な先生だったりする

学生時代の先生のことを思い出すとき、

私の場合「いい先生だったな」と思う先生は、あまりキャラクターの強くない、

どちらかというと地味な先生です。

熱血系の先生や、教育における理想を掲げて頑張ってる先生や、

名物的なキャラ強めの先生なんかが担任だったこともありますが、

大人になってからそういう人を振り返ってみると、

どこかいびつで薄っぺらい人たちだったという結論にたどり着いてしまうわけです。

 

多分そういう人たちは、本当の意味で自分の頭で真剣に何が大切なのかを考えることを

ほったらかしにしたまま大人になってしまったのではないかと思います。

どこかで聞いたことのあるような安い正義感に満ちたセリフだったり、

あきらかに「型破り」を意識した言動だったり、

やっぱりなんだか結局は「自分がどうみられるか」しかないんだろうなという感じ。

 

私は「優等生」側の人間で、「不良」側の人間が嫌いでした。

(まあいまでも嫌いですが)

で、不思議なことにそういう先生たちは不良連中になぜか理解を示そうとすることがあります(いわゆる「不良は本当はいいやつ論」でしょうか)。

もしくは、完全にそれを嫌って優等生側ばかりを褒めそやすか、どちらかです。

 

私が振り返って、いい先生だな、と思う先生はそのどちらでもありませんでした。

不良側にはやっぱり悪いことは悪いと言っていたし、

我々側にも、「奴らを排除したいという気持ちはわかるが、気に入らない人間というのはどこに行ってもいるもんだよ」とそれとなく教えてくれていた気がするのです。

そういう、地に足の着いた世の中の見方を教えてくれた先生は実は多くなく、

また目立ちません。

 

しかし、ある程度おっさんになって思い出されるのは、

そういう、地味だけどしっかりした先生の存在でした。

多分、自分なりの人生観をしっかり考えて作ってきた大人、という意味で

当時はよくわからなくても、年を取ってから共感できる部分があるということなのかと思います。

正しいとか正しくないとかではなく、自分の経験に裏打ちされた

「私にとって世界というのはこうだ」という話は、

たとえ自分の世界観にそぐわないとしても味わいのあるものです。