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手綱獲りの旅

いつのまにか時は流れおっさんになってしまってました。

ブラックかどうかは忙しいか忙しくないかで決まるのではない

忙しいとしんどい。

かたや、忙しくても平気などころかむしろ楽しそうな人もいる。

この差はなんだ?

忙しくて平気で、しかもそれを楽しめる人は

人間としてのレベルが上だとか、

忙しくてしんどいと言っている人は甘えてるとか、

そういうことか?

 

違うと思います。

このブログのタイトルにあるように、

「手綱を握っているかどうか」がすべてだと思う。

自分でコントロールでき、主導権を握っている部分が大きければ、

ある程度忙しくても、「自分で選んだ、やる価値があると信じていることをやっている」ので、

わりあい大丈夫。

一方で、「とりあえず家族を養わなきゃいけない」

「ほかに仕事の当てがない」

「代わりの人がいない」

といった、「自分がその仕事を選んで、その価値を信じている」というのとは

異なる部分が仕事をやる理由としてドミナントになってくると、

これはかなりしんどい。

経験上、しんどいのは100%このパターンだった。

ブラックかどうかというのは、

社員のどのくらいがこういう思いをしているか、だと思うな。

もちろん、人間休まないと体壊すから、

好きで信念があればいくらでも働けるわけではないので

労働時間が長すぎないのはすごく大事。

でも、それ以上に「やりたさ」「やりがい」がほとんど生まれてこないような職場は

間違いなくブラックでしょう。

それを見つけるのは個人の問題、というのもそうだとは思うけど、

人間ひどい環境だとあっという間に追い詰められるもので、

そういう環境だと「やりがい」「やりたさ」を見つける力も鈍るってもんよ。

だから、もう無理とおもったらとりあえず逃げてしまうのがいいんだな。

あるいは、「わがままで困ったやつになってやる!」と開き直るのもあり。

いざというときはいったんリセットするというのはとても大事。

というか、ほんとに一線を越えて心を壊しちゃうとそこまで頭が回らなくなって

取り返しがつかないことになりかねない。

ちらっと「死にたいな」と思い始めるあたりがギリギリのラインだと思ったほうがいい。

それをほったらかしにするのはかなり危ない。

これは完全に憶測でしかないけど、自殺する人は「酔っ払い」とおなじで、

冷静に考え直す、なんてできなくなってしまっているんだと思う。

それは「酒を飲んでも安全運転できる」というのが不可能なのと同じで、

まったくコントロールをなくしてしまうんだろう。

だから、ひとまず逃げましょう。

それと、自分を責めたくなったら、自分の持っていない、できないことでなく、

今までできたことや持っているものを数えるようにしましょう。

課題は「心の殻の破壊」と「合理的な自己防衛」

結構頑張っていて、そこそこ結果が出つつあるときは実は危ない。

つい、欲張って目標を高くしてしまう。

また、自分に力がついてきている自覚があるものだから、

つい、無理なお願いを引き受けてしまう。

そうすると、せっかく力がついてきて、結果も出てきているのに

結局無力感に襲われることになる。

目標を引き上げるのが早すぎるのだ。

また、つい余裕であるように勘違いすると、

気前が良くなり、自分のことの優先度を下げてしまう。

これもよくない。

余裕の有無にかかわらず、自分をまずは大切にし、最優先しなければ

本意の結果はまず得られない。

認識が甘かった。

 

で、結局自己嫌悪と自己否定になってしまうんだけど、

ちょっと待った。

目標をいきなり持ち上げすぎただけで、

出来ていることはたくさんある。

それをきちんと数えれば、自己否定なんてしなくていいことに気づく。

これは自分を守るための方法としてはなかなか筋がいいと思う。

また、余裕ができてくると「自分を大事にしない理由」「本当にやりたいことを我慢する理由」を見つけるようになる。

後でもできると甘く考えてしまう。心の殻にこもってしまう。

そうではなくて、やりたいんだからやるのだ。優先していいんだ。

自分を優先すること。これを覚えないと、結局食い物にされるだけだ。

悲しいけど、初めはそうする意識がなくてもだんだん「じゃあ・・・」ともたれかかられる。

そういう、「もたれてもいいですよ」的な態度をとるのはもうやめだ。

妙な「本気さ」「ガチさ」

「私は努力してるんで」

「俺、マジで頑張ってるんで」

「死ぬほど働いてますんで」

という感じで、努力している自分を臆面もなくアピールする姿はどうも気持ちが悪い。

特に、立場が上だったりうまくいった人がこれをやるのは、とても傲慢で、謙虚さを欠いている。

なぜか?

 

よっぽどのバカでない限り、

自分の成功をの原因を自分の力だけに帰結することはないだろうと思うからだ。

何かの結果において、運や状況など、自分のコントロールできないものの比率は大きい。

これをわかっていないのは単に経験が少なく、大した挑戦をやっていないということだろうと思う。

一生懸命やってもうまくいかないことなんていくらでもある。

それでも、一生懸命やるのは誰かにそれをアピールするためじゃなくて、

一生懸命やらないとただでさえ100%が保証されていない成功の確率がさらに下がり、ほとんどなくなってしまうからだ。

一生懸命やるなんてのは当然の話で、ある程度ちゃんとした人ならみんなやっている話なのだ。

だから、その中でたまたまうまくいったのであれば、謙虚に自分は幸運だったと思うのがまともな考え方だと思う。

 

どんな職業の人も人知れず大変さを抱えながら頑張っている、というのは当然のことだと思う。

ただ、多くの人はそれを表に出さないだけの矜持を持っているのだろう。

 

逆に、あまり必死さを表に出すとまずいのではないかという職種もある。

お笑いタレントなどはそうなのではないだろうか。

とある女性若手お笑いタレントの生活に密着して、という番組をちらっと見たが、

「絶対にビッグになる」

「昔自分をバカにした連中を見返してやる」

「ライブ前には練習をとてもたくさんやる」

「自分を追い詰めてネタを考える」

みたいな、「壮絶な芸人」像を強調する作りになっていた。

 

こんな風に自分を紹介されて大丈夫なのだろうか。

そんな芸人のネタを笑えるだろうか。

同情票のような人気がほしいと思っているのだろうか。

そもそも、「お笑い芸人」という普通の人なら目指さない、

ある種普通の仕事のセンスが通用しない世界なのに、

彼女の姿勢はまるでビジネスマンみたいなのである。

 

もちろん、戦略的に芸能界で長く生き残るために知恵を使うのは当然として、

それをここまで「必死な」感じで放送するのは

芸人としての寿命を縮めるのではないか、と余計な心配をしてしまった。

 

どうも最近、「こういう人が仕事ができる人」というイメージが

「職種にかかわらず」画一化してきている気がするのが心底気持ちが悪い。

(余談になるが、スーパーマーケットの品ぞろえがどの店でもほとんど変わらなくなっている。10年前はもう少しバラエティがあった。最大手以外のものがいろいろと取り揃えてある、というのが豊かさだと思うのだが、昨今の効率重視の流れではそういう意見は握りつぶされてしまうのか)

職種に応じて、もっというとより具体的な仕事の内容に応じて

「デキる人」(この言葉も嫌いだー)像は変わってくるのが道理だと思うのだが・・・

芸人なら、もっと破天荒でちゃらんぽらんで「こいつ大丈夫か」というような「芸人にでもなるしかしょうがない」タイプが

もっといてもいいような気がするのだが、

最近の芸人はすべからくビジネスマン的で小粒な印象を受けるのだ。

そしてこれは何も芸人だけではなくて、

「どうすればウケるか」ばかり気にして生きる小粒な世の中になっているような気がする。

「目標は」と聞かれたらとりあえず「世界にもっと笑顔を」と言っておけばいいような世の中だ。

 

本気、とか、ガチ、とか、そういうのは実は他人の目を前提とした区分であって、

結局「本気」と「そうでない」組に分けて、

「自分は「本気」組だから。おまえらとは違うから」みたいなことをいいたいだけなんじゃないかと思う。

私はそんなのは程度の低い話だと思っている。

 

より程度の高い、というか純度の高い基準としては、

「夢中」「没頭」があるのではないかと思う。

これは本気とかそうじゃないとかではなく、

もう物事の中に没入してしまって、

他人がどうとかいうのは一切関係がない、

純粋に個人内で完結する状態のことを指す。

そういう時間を増やしていきたいな。

大人になって思い出す「いい先生」は、地味な先生だったりする

学生時代の先生のことを思い出すとき、

私の場合「いい先生だったな」と思う先生は、あまりキャラクターの強くない、

どちらかというと地味な先生です。

熱血系の先生や、教育における理想を掲げて頑張ってる先生や、

名物的なキャラ強めの先生なんかが担任だったこともありますが、

大人になってからそういう人を振り返ってみると、

どこかいびつで薄っぺらい人たちだったという結論にたどり着いてしまうわけです。

 

多分そういう人たちは、本当の意味で自分の頭で真剣に何が大切なのかを考えることを

ほったらかしにしたまま大人になってしまったのではないかと思います。

どこかで聞いたことのあるような安い正義感に満ちたセリフだったり、

あきらかに「型破り」を意識した言動だったり、

やっぱりなんだか結局は「自分がどうみられるか」しかないんだろうなという感じ。

 

私は「優等生」側の人間で、「不良」側の人間が嫌いでした。

(まあいまでも嫌いですが)

で、不思議なことにそういう先生たちは不良連中になぜか理解を示そうとすることがあります(いわゆる「不良は本当はいいやつ論」でしょうか)。

もしくは、完全にそれを嫌って優等生側ばかりを褒めそやすか、どちらかです。

 

私が振り返って、いい先生だな、と思う先生はそのどちらでもありませんでした。

不良側にはやっぱり悪いことは悪いと言っていたし、

我々側にも、「奴らを排除したいという気持ちはわかるが、気に入らない人間というのはどこに行ってもいるもんだよ」とそれとなく教えてくれていた気がするのです。

そういう、地に足の着いた世の中の見方を教えてくれた先生は実は多くなく、

また目立ちません。

 

しかし、ある程度おっさんになって思い出されるのは、

そういう、地味だけどしっかりした先生の存在でした。

多分、自分なりの人生観をしっかり考えて作ってきた大人、という意味で

当時はよくわからなくても、年を取ってから共感できる部分があるということなのかと思います。

正しいとか正しくないとかではなく、自分の経験に裏打ちされた

「私にとって世界というのはこうだ」という話は、

たとえ自分の世界観にそぐわないとしても味わいのあるものです。

成果がないことよりも、ごまかしの上に成り立っていることのほうがあとあと厄介かもしれない

どんな仕事にせよ、成果がある、というのは何かと心強いものです。

キャリアアップや転職など、将来自分をアピールする際の材料となるためです。

ただ、それが実際よりも大きく評価されたとしたらどうでしょうか。

あるいは、大きく見せてしまって、それが評価されてしまって引くに引けなくなってしまったとしたら・・・

 

「すみませんあれは嘘なんです」

と後で言うことができる場面はかなり限られてきそうです。

なので、もうそれは「本当のこと」にしてしまって、

そのうえで次をやっていくしかない、というのが実情でしょう。

つまり、一度ごまかしをしてそれで評価されてしまったら、

もうそれをなかったことにはできないというように世の中できてしまっているようです。

 

そうしてごまかし続けられるならよいのですが、

いくつか問題があります。

まず、意外に人生の時間スケール(数十年)というのは、

長すぎることはないもののそれで逃げ切れるほどは短くないようです。

すなわち、生きているうちにまいた種は、

わりと生きているうちに影響してくるようです。

大きな会社の粉飾決算がばれちゃったりするあたり、

これはかなりの場合当てはまりそうです。

 

あとはですね、何でも「ばれてないと思ってるのは自分だけ」

というところがあります。

評価されているようで、内心「まあでもこの人ごまかしてるよね」

というのは薄々気づかれていたりするものです。

ではどうしてそれに気づいているのに「評価していることにして」

その人に仕事を回したりするかというと、

「だまされたふりをしてもその人を評価しているふりをする」

ことが得だからだと思います。

なので、こういう場合、利用価値がなくなったらあっさり捨てられると思います。

その際はもともと「ごまかし」がある分だけ手痛く捨てられることになるかもしれません。

 

そして最大の問題は、

「結局自分をだますことはできない」

という点です。

ごまかしている自分はなにより自分がよく知っています。

そんな精神状態では、何らの称賛も結局心を満たすことはないでしょう。

 

そして怖いのが、それに気づいてもなかなかその状態をやめられないことです。

なので、ごまかしをやるというのはかなりの確率で片道切符になることを肝に銘じておくのがいいのではないかと思います。

生き延びることを至上命題にすれば平和かもしれない

人生の意味、だとか、理想の恋人、だとか、仕事の流儀、だとか、

そういうのはいったんおいといて、

「とにかく今日をできるだけ前向きな形で生き延びる」

ことだけを考えて日々を過ごしているような気がします。

その結果、結構調子がいいし、仕事でも家庭でもイライラすることがとても減りました。

また、仕事での成果も出やすくなっている気がします。

特に、第二子が生まれて家庭での忙しさがますます増えるようになったので、

この効果は絶大です。

 

思うのですが、「理想」をもって、それに向かってポジティブに頑張れる人がどれくらいの割合でいるのでしょうか。

私は残念ながらそうではないようで、

理想達成型で人生を送ろうとしていた時は、

理想からほど遠い現実を嘆くばかりで、

何事もろくに集中できていなかったような気がします。

そうなると、人間は何とかして現状に理由付けをしようとします。

そうすると、以前書いたように非現実的な解決案を本気で信じたり、

誰かを悪者にしてみたりと、

およそ前向きな地に足の着いたやりかたからは遠ざかるばかりでした。

 

かように、「理想」は危険です。

これは「隣の芝」と言い換えてもいいかもしれません。

というのは、往々にして「理想」は根拠が薄弱です。

「なんとなくその状態がよさそうだから」程度のものであることが多いのではないでしょうか。

にもかかわらず、理想から遠い状況に置かれると人は苛立ち、周りを呪う傾向が強まります。

「育児に積極的でかつ収入も多い夫」だとか、

「実家の両親とうまくやってくれて家事も完璧で美人で優しい妻」だとか、

そういうのが「危ない理想」の典型です。

そういう理想を本気で信じてしまうと、そうでない夫、妻を責め、軽んじるようになります。

目の前の人や状況をないがしろにして、今以上に人生がよくなることはないと思います。

 

それよりも、現実をベースにして、

ひとつひとつ少しずつ自分の思う通りの人生に近づける、という作業のほうがずっと簡単でかつストレスを作らないと思います。

その際に、「何が自分にとって本当に大切か」をきちんと見極めることに

相当の時間を使うのが結局は幸せな状態への近道なのではないかと思うのです。

そうすることで、「理想」から解き放たれた自分の人生の軸が見えてくるはずで、

それを基礎にして人生を構築すればわりと十分な気がします。

結局一日24時間ですし、人生は数十年で、すべてを手に入れるにはあまりに短いです。

なので、「何が大切か」について真剣に考え抜いて、

それ以外はある程度あきらめる、というのが

今の私の好きな生き方です。

そうすることで、結構いろいろと手に入る気がするのです。

人の人生を勝手に断じてはいけない

タイトルのまんまなんですが、

テレビなんかで「あの人は今」みたいなのがウケるのは、

なんというか、人の人生を評価する快感があるからだと思うんですね。

「あ~ちょっとうまいことやったけど結局落ち目になったな」とか、

「転身してボランティアみたいなことやってるのえらいな」とか、

なんでもいいんだと思うんですけど、

人の人生を断ずる、これは結構な快感なんでしょうね。

 

でも、それはやっぱり下品だと思うんだよな。

はたから見て哀れな生活に見えても、

本人的にはものすごくそれで楽しいし、

じつはあまり周りに迷惑も掛かってない場合って決して少なくないと思う。

それなのに、勝手に「かわいそうだ」とか「負け組」とかレッテルを張るのは、

結局そうやって人の人生を断じたい、とう一心なんだろう。

 

それで「自分はそうじゃなくてよかった」なんて自分を安心させるのは

やっぱり下品だと思うし、

そういう人はやっぱり自分の人生もネガティブに断じちゃってるのかもしれない。

 

私は「探偵ナイトスクープ」という番組が好きで時々見る。

あの番組は一般の方に焦点を当てて作る今時珍しい番組で、

いい意味でテレビ的でないところがある。

予定調和感がほとんどないのだ。

 

で、その一般の方というのがなんとも面白く、

例えば「鍋が大好きなコワモテの父親に、夕食の鍋の頻度を下げてもらうように小学生の子供がお願いする」なんていう回があったりする。

子供としては初めて父親に面と向かってお願いするので真剣なんだけど、

お願いの内容がどこかとぼけている感じで面白い。

でも、勇気を出して話を切り出す子供と、それを笑いながら聞く父、そして応援する母親の姿に不思議な感動を覚えたものだった。

 

こんな感じで、「笑っていいのか泣いていいのかわからない」というような

一言で言い表せないような出来事は人生にたくさんある。

だが、多くのテレビでは「笑うところ」なのか「感動するところ」なのかを

テロップとか出演者のコメントとかで視聴者にわかりやすい形で切り出して提示してくる。

我々はいわば、どういう反応をすべきか常にカンペを出されながら視聴しているのだ。

ところがこの番組はあくまでカメラがとらえた出来事だけをこちらに突き付け、

それにどう反応するかは完全にこちらに投げっぱなしなのである。

この一点においてこの番組はすごい。

ちなみにこの「テレビ的でないテレビ番組」はかなりの長寿番組である。

 

で、まさに人を自分の先入観で断じたいタイプの人はこの番組はぴんと来ないのではと思うのだ。

ただ、私としては妙に納得してしまうものがあって、

やっぱり人生や、起こった出来事をそんな簡単に「負けだ」「勝ちだ」「不幸だ」「幸運だ」なんて言いきれないし、

まして他人に対してそれをやるなんてのはまさにテレビ的な押し付けと同じだなあと思うわけなのである。