手綱獲りの旅

いつのまにか時は流れおっさんになってしまってました。

ゲームを降りる

仕事の種類によっては、それがほとんどゲームと変わらないようなものがあります。

そうでなくても、仕事のゲーム的な要素、つまり相手に勝つという要素に血道をあげることについて、

そこに疑問をさしはさむ余地はないように思えます。

 

でも僕はゲームを降りて、仕事の中身に集中することとします。

そうでない同業者にほとほと嫌気がさすと同時に、

自分にもそういう部分がやっぱりあって、

それが自分を苦しめてやる気も能力も下げてしまっていることに気づいたのです。

 

僕の仕事においての成果というのはそれを測るいろいろな指標が用意されています。

でも、それで高得点を取るということに最適な戦略を取ろうとすればするほど、

本来望んている仕事の姿から離れていくばかりです。

社会的に意味のない仕事になってしまうのです。

 

高得点を取って悦に入っている同業者が

本当に能力が高いかというと、

決してそういうことはないということが身にしみてわかり、

自分はそうなってしまったら何のためにこの仕事をやっているのか

本末転倒だと。

 

なので、自分のなすべきこと、目の前のことに没頭して、

得点や競争のことはひとまずほぼ完全に忘れることとします。

 

ちなみに、これは自分はもはや勝てない、と

あきらめる態度ではなく、

自分(と世の中)にとっての価値あることと

高得点を取ること(これは世の中的には本当に意味がない。

誰も特定の人が偉いか偉くないかなんて興味ない)と、

は全く違うことが分かったので、

前者に集中するという決心です。

で、前者に集中することで

そこそこの高得点は撮れることになると思いますし、

それで自分的には十分だろうということが想像できたわけです。

 

僕は現状、そこそこ評価されており、

かつかなり恵まれたポジションにいます。

なのになぜ満たされない気がするのか、

というところに考えが行くと、

結局ゲームで一位を取ろうとしているからで、

それが本当に自分の望む生き方でないからだという気づきが

今回の考えにいきつくきっかけとなりました。

そういう自分の謙虚でなさに恥ずかしくなったのです。

 

私生活、待遇という意味では

はっきり言ってもう十分なのだから、

あとはディープに専門力を高め、

自在に知識や技術を使いこなし、

めくるめく専門性の世界にどっぷり浸かり切る、

ということこそがやりたいことであり、やるべきことであろうと。

そこにはゲームの得点や勝ち負けは関係ないと。

そういうものを超えた、勝てるだけの最小限のラインまでの努力をするとかいうことでなく、

ひたすらに骨の髄まで浸ってやりまくる

ということをやらないと、

単に勝てる、ではなくガッツリ骨のあるプロフェッショナルにならないと、

ゲームの得点にかかわらず

絶対に死ぬときに後悔するだろう、

と、

そんなことを思ったのでした。

丁寧でまともな仕事

おじさん臭いことを承知で書きますが、

このところ、「なるべく労力をかけず、なるべくたくさんお金を稼ぎ、なるべくたくさんの人に褒めてもらえる」

ことが一番うまいやり方だという流れがものすごく強くなっている気がします。

洋楽邦楽問わず最近の音楽はもう完全にそんな感じで、音楽を愛する人が自分で納得がいくように練りこんで作り上げたような作品はほとんどなくて、

代わりに「こうすれば話題になるかな」「こうすれば売れるかな」という試行錯誤を少しやった程度で、あとは宣伝に一生懸命。

SNS拡散希望は序の口で、作品や作者にわけのわからないストーリーを後付けしてさもそれがありがたいものであるかのように思わせるというのはよくある手口。

飲食店も同様で、新規開店の店は話題先行、基本的なテクニックをきちんと極めた人が納得のいく料理を出しているというより、

ひたすら話題になり、お金を稼ぎたくてやっているような店が多すぎる。

要は「成功したい。褒められたい。威張りたい」が先にあって、

一番手っ取り早そうなものということで音楽やら飲食店やらで一発当てることをゴールにしている。

そんな刹那的で幼稚な自意識に基づいた仕事にあふれていて最近結構困ります。

 

最近商店街のはずれにある目立たないレストランで食事をしたのですが(食べログの点数はなんと3.0台)、

これが安くて非常においしく、かつとても雰囲気のいい店で感動したのです。

奇抜な料理は一切ないのですが、

「きちんと丁寧に作った料理」はこんなにも素晴らしいのかと思いました。

 

しかし、「きちんと丁寧にやった仕事」は、

先の「なるべく早く」「なるべく効率的に」「金や名声を得る」という発想からは

残念ながら出てきません。

そういう仕事をできるようになるには時間がかかりますし、

「誰かに認められたからこれでいいんだ」というような

主体性のない態度では到底たどり着けない領域でしょう。

また、直接的にそれが金や名声に結び付く保証はありません。

なので、古臭い、頭の悪い、損なやり方だという風に

今は思われているのかもしれません。

 

僕はそういう仕事をしたいと思っていますし、

そうじゃないといずれは淘汰されてしまうと思います。

また、そういう仕事のできる人はとても少ないので、

戦略としては長期的に見て悪くないと思います。

あまりこれが大事だということは広く言われていない気がしますが、

みんなが人に見せる用の自分のストーリー作りに必死な昨今、

この逆張りは強いと信じています。

生きていくうえで最も大切な能力

それは、「自分を肯定する力」です。

自分の子供には何よりもこれを身につけてもらいたいから、

「自分は無条件で愛される価値がある」ことをしつこくわからせるというのが育児の方針。

 

これさえあれば、きっと他人も肯定できるはず。

他人をむやみに否定する人はきっと心の底で自分を肯定できていないんだと思う。

で、それを他人を攻撃することで解消しようとするんだけど、それは無理。

 

人に自分を肯定するようお願いしたり、期待するのもまずい。

それは自分がコントロールできることではないから。

また、ずるい人は「肯定されたがっている人」をうまく利用することを知っている。

 

「自分を肯定する力」をきちんと育てれば、

他人の攻撃を無力化できるし、有益な批判を受け入れる広さがそなわる。

これがないとどんなに勝ちを積み重ねたとしても、

こころはいつまでも渇いたままだろう。

 

僕自身、これを身につけずに大人になってしまったせいで

ことあるごとにストレスを感じてしまう。

だから、自戒を込めて。

「自分を肯定する力」。

それは強さであり、自由だ。

目立ったもん勝ちの時代だが

やっぱり、嘘は嘘のままで、どんなに無理やり理屈をつけても、本当にはならない。

空っぽはどんなに取り繕っても結局空っぽ。

身の丈に合わないポジションや賞賛はいずれそれを上回る報いがある。

僕は最後まで「身の丈通りの本当」でいたい。

母は狂っている

昨年、両親に対しこれまで自分にとってきた態度を反省するように、との手紙を書いた。

 

その後いろいろあり、父とサシで話をすることに。

生まれて初めてリラックスして、対等に父親と対話をすることができた。

父親はすっかり小さくなっていて、

年を取ったなあというのが率直な感想だった。

 

父はある程度はこちらの話が理解できるようだった。

年齢のせいなのだろうか。往年の勢いは影をひそめ、

おとなしくなっていた。

 

だが、話をしていくうち、どうやら母親は自分に対してとても怒っているとのことで、

息子である自分の方から謝ってほしい、というのが気になった。

こちらとしては何ら謝るようなことをやっていないので

はじめは「なにいってるんだろう」と感じたが、

どうやら母親は少し精神的におかしくなっているとのことだった。

 

父は「母さんについて、もう対等に話をする相手とは考えないでほしい。

子供だと思うというか、保護する対象という目で見てやってほしい」

と自分に頼んだ。

 

正直、ショックがあった。

親が老いることについてはそれなりに覚悟があったつもりだが、

ちょっと早すぎる、と思った。

 

父には、

「正直言って自分は何も悪いことをしたと思っていないので、心から謝るのは無理だ。

だが、母がそういう状態なら見かけ上こちらから折れてあげる」

と話した。

 

翌日電話で母親に謝る「演技」をすると、

母は精神疾患とすぐにわかる弱った声で精いっぱいこちらを詰った。

自分の育て方や、息子であるこちらの気持ちを慮ることは一切なく、

ただひたすら、

いかに自分が傷つき、不当な扱いをされたか、

いかにこちらが思いやりのない人間であるか、

という話をして一方的に電話を切った。

 

これです。これこれ。

これが嫌で親に手紙を書いて距離を置いたんです。

これが毒親でなくてなんであろうか。

ひたすら、自分が特別扱いされることばかりを要求する。

もう大人になり、社会人として家族も持っている子供に対して、いつまでも優位に立とうとする。

反省を促す手紙は父親には効果があったようだが、

この毒母には全く効かなかったらしい。

 

はっきり言って、こんなクソババアと今後付き合っていくメリットは皆無である。

勝手にいつまでも駄々をこねてろよ、と思う。

 

ただ、その相手をさせられる父親や同居している兄弟のことを思うと、

やや申し訳ないような気がする。

母親をまともな人間としてみると腹も立つが、

ここまでくるともはや病気である。

精神疾患、というよりは、これまでの彼女の人生に対する向き合い方、

一度だって謙虚に自分を顧みて、

現実を受け入れて自分を変えるという努力をせず、

ひたすら自分の状況を呪い、他人を呪い、世間を呪ってきた、

その卑屈で投げやりな生き方、それがいよいよ彼女自身をむしばみ始めたのだと思った。

 

それに気づき、その呪縛から逃れようとした自分の判断は、

やはり間違っていなかったのだ。

「家族で仲良く」はもちろん素晴らしい、が

それが、適切で健全なパワーバランスの下に成立している場合に限るよね。

だれかが実はものすごく我慢していたり、犠牲になっていたりしたら、

「家族で仲良く」はその人にとっては嘘で、寒々しいもの。

だから、もしだれか一人でもそういう思いをしている人がいて、

それでやっと成り立っている「仲のいい家族」だったら、ぶっこわしていい。

多数決じゃない。「だれか一人でも」そういう人がいたら、

それは嘘だから。

 

一方でそれでいい思いをしている側はそういう「仲のいい家族」の存続を求めていて、

そういう奴は我慢している側が現体制を壊そうとすると、

結構純粋に正義感から「お前は勝手で家族のことなんか考えていない」とか言ってくるんですけど、

それは結局、「お前が我慢してればこっちは楽しいから、それをやめるな」

というメッセージなので、

聞く必要ないです。

むしろ、家族のことを考えすぎて、気を遣いすぎて疲弊しているのに

連中はそんなこととはつゆ知らず何も見えていない安い正義感と「家族を本当に思っているのは自分」という自己陶酔でこちらを責め立ててきます。

鼻で笑ってやりましょう。

一番伝えたいこと

そこのあなた!

そう、なぜかこんなブログにネットサーフィンの末行き当たってしまったそこのあなた!

 

あなたはたぶん、なにか悩みを抱えていたりするんじゃないですか?

もしかして、自分には価値がない、なんて思ってたりするんじゃないですか?

 

ほんとのことを言います。

何の取り柄もなく、性格も見た目も悪く金もない、努力もしたくない怠惰な人がいるとします。

その一方で、金や容姿や才能に恵まれていたり、すごい努力をして何かを成し遂げたり、ものすごい人格者で立派だったりするような人もいます。

 

この両者の人としての価値は同じです。

繰り返します。何の取り柄のないクズでも、生きてていいんですよ。

逆に、取り柄があったり、金があったり、それがたとえものすごい努力の果てに手に入れたものであったとしても、それを根拠にほかの人を馬鹿にする権利や、威張る権利なんて、誰にもないんですよ。