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手綱獲りの旅

いつのまにか時は流れおっさんになってしまってました。

毒親と生きづらさ

アダルトチルドレンという言葉があります。

アダルトチルドレン - Wikipedia

 

毒親との関連性で語られる際には、

自我が抑圧され、その影響が成人後も尾を引いているという状態と言ってよさそうです。

 この「自我の抑制」が「生きづらさ」の正体である場合が非常に多いのではないか、

ひょっとすると日本社会全体を覆う閉塞感の一因といっては大げさかもしれませんが、

とにかく実は現代日本の仕組みと生きづらさと無関係ではないのではと思います。

 

前提として、親が子供の行動に制限を加えることは当然です。

たとえば、子供自身を含め、誰かの生命を危険にさらす行為や、

窃盗やいじめのような犯罪行為について、

その是非を知らない子供がそれを試みた場合、

これを止めるのは親の義務です。

 

ここでいう親による「自我の抑制」は、上記に該当しない子供の自発的な意思による行動について、

親が恣意的にそれを許可しないことに該当します。

たとえば、子供が好きなキャラクターについて

「そんなものはくだらない」だとか、

子供の好きな(危険でなく、犯罪でない)遊びについて、

「それをやってるとバカになる」だとか、

こういう感じの否定の仕方をすることです。

 

なぜこういった否定がよくないかというと、

これを続けると子供は「好きなことは否定される」前提で行動をします。

すなわち、基本的に自我を出すのをあきらめるようになります。

それが親にとって都合のいい「いい子」だったりして、

子供への攻撃が和らいだ場合、以後子供は基本的にそういう路線で生きてくことになります。

「自我を出す」という選択肢が子どもの人生から消えていくのです。

 

そしてこれが、「自我を出す」ことについて消極的な日本の公教育や

社会的な道徳規範と重なることで、

「自我を出さず、他人の足手まといにならない」人間が大量生産されます。

こういった人たちは、そういう考えを持たない人たちにとっては

格好の部下であったり、妻であったりするわけです。

ルールを守り、律儀に働き、世の中のために尽くす。

日本社会はこういった人たちの働きによってなんとかうまく機能しているように見えます。

 

ところが、そういった人の犠牲で外国に勝ち、

たくさん外貨をもらってこれる時代が終わろうとしています。

つまり、「自我を出さない」人たちがまじめに長時間働いたところで

それが安い外国人労働力のせいで競争力にならなくなってしまったのです。

こうなってくると、「自我を出さず」働いてきた人たちへの冷遇が始まります。

すると、「真面目にいうことを聞いて尽くしてきたのに恵まれない」人が増えていく。

「働いても働いても報われない」状況があちらこちらで起こってくる。

このあたりが、最近「生きづらい」という声がいろいろと出てきた理由の一つになるのではと思います。

 

まとめると、

昔の日本は「子供の自我を抑圧する」親および社会によって

一握りの「自我を出す」層と、多数の「自我を出さない」層に分かれており、

後者のまじめさ、律儀さ、献身性によって人件費に比して質の良い労働力が供給されており、

これによって日本は豊かになっていた。

そのおかげで、後者の人たちも(前者ほどではないが)経済的な恩恵を受けており、

ある程度は自我を抑圧して真面目に生きても報われているような気分でいられた。

しかし、安価な労働力が国境を越えて利用可能になったために

単に真面目に文句を言わず働くというだけでは徐々に報われなくなってしまった。

 

ということだと思います。

つまり、毒親の教育は害悪であるというのは、

もはやそれが時代遅れの教育であり、

日本を滅亡に導く教育であるという意味でかなり深刻な状況になってきているのです。

大げさなようですが、私としてはこれをひしひし感じますし、

上の世代と話をする時の一番の違和感はこれです。

 

では、「真面目さ」「律義さ」を否定すべきか?

それらは働く上で大切なのではないか?

という疑問が当然生じます。

これについては、条件付きでYesというのが答えなのではないかと思います。

それについては、また後日。