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手綱獲りの旅

いつのまにか時は流れおっさんになってしまってました。

育ちの影響力の大きさ、そして脱却

毒親ということでしばらくは記事を書いてきたのですが、

なぜそこまで親にこだわってばかりいるのか、

と思われる方もいるとおもいます。

 

やはりそれは、

「親の影響力、ひいては育ちの影響力は大きい」

からだと思います。

 

これについては自分の意識に上ってくること自体が

30歳を過ぎるまで全くなかったのですが、

裏を返せばそれだけ「当たり前、自然」に

自分の考え方や癖、行動基準に溶け込んでいるのが

「育ち」の部分なのです。

 

周りの人を見ているとなんとなくその人の親がどういう人なのか

想像できる気がしませんか?

私の知る限りでは、魅力的な人の親は大体魅力的な人だった気がします。

逆に、一見うまくいっている家庭を取り繕っている感じの親はすぐわかります。

これは皆さんも子供時代に友達の家に遊びに行くと感じたのではないでしょうか?

 

そうなるといわゆる「毒親」持ちの人は相当なハンデを背負うことになるのですが、

育ちの影響力は大きいし、そのために若いころに味わった苦しみはなくなりませんが、

でも、親の悪影響から脱却することは実は可能なのではないかと最近強く思うのです。

 

いわゆる「アドラー心理学」といわれる考え方では、

(「嫌われる勇気」が有名ですね)

トラウマというのは存在せず、端的に言えば自分の欠点の言い訳に使っている

という主張があるようです。

これはさすがに極端だという気もしますし、トラウマは実際にあるんだろうと思います。

しかし、それにずっと縛られて生きるしかないかどうかというのはまた別の問題です。

私の場合、

「親や、親を中心とした公教育の歪んだ考え方が自分の人格に大きな影響を与えた」

ことに気づいてから、日常のあらゆる場面で「親由来でない」目線で物事をとらえることを意識するようになりました。

そうすることで、これまで困難だと思っていたことや、やってはいけないと思っていたことについて、

「実はそうではない」

という判断に至ったことがたくさんありました。

つまり、これまでの人生で当たり前のように用いてきた判断基準について、

もう一度新鮮な気持ちでそれらをとらえ直し、

自分自身を再構築するという気持ちで今は毎日を過ごしています。

 

たとえば、「他人に気を配り、不愉快にさせない」

ことは一見いいように思えます。

しかし、それで自分が過剰にストレスをため込んでしまったらどうでしょう。

「自分だけが我慢すればいい」という考え方もあるでしょう。

しかし、それがもとで心身にダメージを負った場合、

それを本当に自分だけで消化できるのでしょうか?

多くの場合、どこかほかのところにその影響が出るので、

結局他人を巻き込むことになるのではと思います。

 

この場合、何がまずいのかというと、

今までは「じゃあ我慢できるような強い自分になる」

というような考え方で問題をとらえていたのですね。

つまり、「自分の未熟さが原因であって、

より人格を磨けばストレスにも耐えられる」

という解決を図っていたのです。

でも現実はストレスが大きくなる一方で、

とても人格を磨く余裕なんかない。

自分はなんて心の狭い人間だ、

という悪循環にはまっていたんですね。

 

今なら、

「ストレスを感じた場合、その影響をほかの人に与えないなんてまず無理」

と思います。

なので、

「では、ストレスを感じないように行動するのがよい」

「そのためには、遣わなくていい気は遣わない」

という判断に落ち着いています。

これは「人格を磨けば何とかなる」

という非現実的な願望を捨てることと同じです。

つまり、「ストレスを感じない人格者な私」という幻想を捨てることです。

そうではなく、「ストレスを感じてしまう非人格者な私」という現実を受け入れることです。

そのうえで、現実に即した解決を考えた結果見えてきた結論でした。

 

そもそも「気を遣う」ことで相手がいい気持ちになるかどうかも怪しいものです。

多くの場合、「気を遣われている」ことに相手は気づきます。

そして「気を遣われる」ことに対して居心地の悪さを感じる方もいます。

 

ここで、以前なら「では気を遣われていると気づかせないくらいうまい気の使い方をする」

というようなむちゃくちゃな解決に飛びついていたのが以前の私です。

そうではなく、そもそも気を遣うこと自体の是非をきちんと考えると、

気を遣わなくていい場面は結構あるぞということに気が付くわけです。

このへんの行動の是非、必要性については疑問をさしはさまず、

あくまでいかに自分が犠牲になれば問題が解決するかという考え方しか

できていなかったのです。

それで、現実の自分からかけ離れた「理想の自分」になることで解決しようとして、

それが達成できずに苦しんでいたわけです。

 

これが育ちの影響でなくてなんなのだ、と思います。

ただ、「自分の育ち方はおかしかった」ことに気づけば、

現実の自分を見つめ、現実的で力強い生き方が生まれてくると思います。

 

 

 

大学時代、音楽サークルに入っていました。

どちらかというとパッとしないサークルで、

パッとしない人たちが演奏していました。

私はそんな自分のパッとしない青春時代があまり好きではありませんでした。

 

最近、当時のサークルの友人が録音していた演奏会の音源を聞く機会がありました。

ひどい音質で、演奏は下手です。

ですが、こういうのを聞いた時に「若気の至り」で恥ずかしい、と思うんだろうな

という自分の予想とは裏腹に、

懐かしさだけがこみ上げてきました。

自分のパッとしない青春を受け入れることができました。

 

その後友人たちと久々に会う機会があり、

彼らは一見パッとしないながらも実はしっかり魅力のある人たちだった

ということに気が付いたのです。

やや地味ながら、しっかり自分の人生を生きている仲間でした。

 

「外からの基準」を気にして生きるように親も、公教育も、社会も仕向けてきます。

気を抜いているとすぐにそういう考え方に毒されてしまいます。

なぜなら、人の目を気にするように仕向けられている大勢の人間を、

それをわかっている少数の人間が食い物にするという構図が

この世界には厳然と存在するためです。

 

そして、毒親たちは残念ながら食い物にされる側の人間です。

そんな人たちの考え方は「食い物にされる」考え方です。

一刻も早く自分を再構築することでその悪影響を振り払いましょう。