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手綱獲りの旅

いつのまにか時は流れおっさんになってしまってました。

世の中金か?そうじゃないか?についての自分なりの答え

ある人は言います。

「世の中金だ」

また別の人は言います。

「世の中金じゃない」

 

私は10年くらい前は、わりとこれは実際のところどっちなんだと悩んでいて、

ある時は「やっぱ金だよな」と納得し、

別の日には「いやいや、金じゃない」と思い直し・・・

とふらふらしていました。

 

これから先に考えが変わるかもしれませんが、

現時点での自分の答えをここに書いておこうと思います。

それは、

「世の中は金。人生は金とは限らない」

というものです。

 

まず、「金だ」「いや金じゃない」という議論の際に、

その対象が「世の中」なのか「人生」なのかを分けて考える必要があると思います。

それを一緒にしてしまっていると答えが出ない気がします。

 

ここでは、自分の外側のコントロールの及ばない遠い世界を「世の中」とし、

比較的コントロールの及ぶ身近な範囲を「人生」とします。

明日の株価なんかは世の中側で、

今日の昼ごはん何食べる、とかはわりとコントロールが効くので人生側でしょうか。

 

そうすると、世の中というのは自分(も含めますが大勢のそれ)以外の人々の動きで決まってくるもので、

またそれらの人々はいろいろな価値観を持っています。

(もっとも、ある程度は教育や社会規範で縛られて画一的だとは思いますが)

で、それらの人がそれぞれに「仕事」をして、その成果を交換しながら生きています。

その際の「仕事の成果」の交換に使われるのが金です。

とはいえ、中には具体的にイメージできる「仕事」の対価としてではない、

金融的なルールで動く金もあるでしょう。

ただし、個人レベルで考えたときには結局それは誰かに「仕事」をしてもらうために使うということになると思います。

したがって、世の中を動かす原動力は金であるといっていいでしょう。

個人個人の価値観とは関係なく、金によって人は世の中とつながっているといってもいいかもしれません。

そういう意味で、「世の中金だ」というのはほぼ間違いなさそうです。

 

しかし、「人生金だ」に関しては上の議論をそのまま当てはめにくい気がします。

人生を「自分のコントロールできる範囲の身近な事柄」とすると、

そのなかで金でコントロールできるのは他人の仕事の成果を得るということだけで、

財やサービスを享受するという一点に絞られます。

ここで、「より良い財やサービスを享受することが人生の最大の目的だ」

という考え方自体は何ら否定すべきものではないと思います。

そういう人は「人生金だ」と言っていいでしょう。

また、「お金を持っていることで優越感を感じたい」というのも似たような感じだと思います。

 

ですが、「世の中」とは異なり、「人生」に関しては個人個人の価値観が主役だと思うのです。

ですので、上述のような考え方があってもいいし、そうでない考え方があってもいいのです。

これは「世の中が金で動いている」というコントロール不可能な事実とは違い、

自分で決められる、決めるべきものなのです。

 

ここで陥りがちな罠なのですが、

人は「金がない」と往々にして不利な立場に立たされることがあります。

ですが、その際に「金がないから自分の人生は価値がない」と考えるのは飛躍がある気がします。

「たまたま不利な立場に立つことは、金の有無にかかわらずあるもので、

今回の苦境は金がないことによる」という場合も多いと思うのです。

 

もう一つ、金がある側は不遜にも「世の中は金」だけではなく「人生は金」を押し付けてきます。

そうすることで、彼らはより多くの人を操ることができるのを知っているからです。

「金があれば人を思いのままにできる」というのは、つまるところ

「人生は金」という共通認識があればこそです。

 

本来、人は金で動かなければいけない理由はないとおもいます。

ただ、その人が「世の中」側として動く場合は(仕事とか)ある程度それもやむなしでしょう。

ただし、それを自分の人生そのものにそのまま当てはめてしまうのは余りにもお人よし過ぎる感があります。

「その金は今の自分には要らない」というケースは、じつは多いのではないかと思います。